text renaissance
宇田川の用語。
text renaissance
宇田川の用語。
いまや SNS は政治の土台になったと「インターネット改革」を掲げ,KNS としてのデライトを構想し始めたのが2年以上前だが,ようやくこの認識が共有出来るようになった感がある。また一つの側面で時代がデライトに追いつきつつある。
ツイストしながら,久しぶりに「テキスト・ルネサンス」という言葉を使った。希哲9年にこれについての文章を書いている。この時はまだ効率性を中心に論じているだけだったが,今のデライト,黄金循環への寄与を考えると,文字本来の先進性を活かすことなのだと思える。
その黄金循環を再び意識するようになってから,デライトの成功像が自分の中で少し変わってきているように感じる。ただの待ちでもなくただの攻めでもなく,着実かつ急速に成功を引き寄せている渦がある。
よく思い返してみると,この黄金循環という言葉も当時はもっと狭く,デライト開発で全知検索の改良を中心にすることで情報発信・情報蓄積・開発が上手く循環する,という程度のことだった気がする。一応「ジパング計画の金脈だと信じて」とも書いているが,まだ描出公開原則を採用する数ヶ月前,デライト収益模体が出来る一年程前だったので,いま思えば漠然としたものだった。
いまのデライトで起き始めている好循環は,超黄金循環というべきか新黄金循環というべきか,もっと広く有機的なものだ。
この感覚が,これまでになくデライト収益化に対する強い現実感を覚えさせているのだろう。
検索演心教育にしてもツイスト宣伝にしても,数ヶ月から半年程度の遅効は織り込み済みなので,そろそろ追い風に加わるのではないかという期待もある。早ければ,2月・3月中にもデライト収益化は実現出来るかもしれない。
そんなことを考えながらの入浴中,ふと,「デライトはすでに成功してるんじゃないか?」という思いが脳裏をよぎるが,それは流石に気を緩め過ぎかと打ち消した。
ここまでの差別化が出来ていて,財務的にも潰れる心配はなく,個人的にも生活に困らず,成長が続き収益化の見通しも悪くない。実際,何百万人と用者を集めたり何百億円と売上があっても青息吐息な事業が珍しくないことを考えれば,成功とは何かとも考えたくなる。
昨年も少し似た心境になり,デライトの成功を急ぐ理由を見失いかけたが,ちょうど身内に悪いことが立て続けに起き始めたのがきっかけで気を引き締め直した。近年のあまりの幸運続きに揺り戻しを恐れていた時期でもあったが,なんだかんだあって今はみんな落ち着いており,すっかり平和を取り戻している。
そのうえ今は,デライト開発開始以後,初めて安定的で持続的な生活を送れている。時間に追われるような生活からの逃げ切りだ。思えば,映画やドラマなどを観ることや考え事だけで終わってしまう日も増えている。気が緩んでいるのは確かだろう。
成功はすぐそこにある,ということを持ち辺の足しにだけしておきたい。
さて、こうした問題を解決するための仕組みをデライトがどう持っているか、という話まで今日はするつもりだったのですが、間がまた長くなり過ぎました。読みにくいので、ここまでは「テキスト・ルネサンス」についてのスレッドということにして、続きは新しいスレッドでしたいと思います。また明日。
このごろ,よく2010年代後半のインターネット文化の動向について考える。つまり,今後約5年間のネット動向についてだ。少なくとも可能性としては,3つの大きな変化が起きうると私は考えている。
一つは,テキストへの回帰,いわば「テキスト・ルネサンス」だ。200X年代後半から動画共有サービスが隆盛し,インターネットのマルチメディア化はそれなりに達成された。0X年代前半に比べて,画像も動画も格段に交換しやすくなり,もはやありふれた<ruby><rb>献典</rb><rp>(</rp><rt>コンテンツ</rt><rp>)</rp></ruby>になっている。
その一方で,動画のような重量級献典を中心とした<ruby><rb>貿事</rb><rp>(</rp><rt>ビジネス</rt><rp>)</rp></ruby>の限界も明らかになってきた。動画は非常に直感的で訴求力の強い献典で,社会的にも注目を集めやすいが,単体の事業部門としての収益性は低い。
テキスト データは,例えば1文字2バイトとして計算すると400字詰め原稿用紙1枚分でわずか800バイトだが,画像なら粗末な画質でも100kB(125倍),内容がある動画なら絞り込んでも1MB(1250倍)が限度だ。しかも,テキストは圧縮余地が大きいので適当な圧縮技術を使ってもたやすく数分の一以下の大きさになる。加工・保存・転送にかかる<ruby><rb>価相</rb><rp>(</rp><rt>コスト</rt><rp>)</rp></ruby>が全く違う。
また,検索技術もテキストを中心に発展してきたので,検索エンジン上での宣伝効果もテキストの方が期待出来る。
このようなことは,動画共有サービスが隆盛する前から指摘されていたことだが,全ての人にとって未知の世界だったため期待感の方が大きかった。しかし,動画という献典の鈍重さに耐えかねて多くのサービスが迷走していることを考えると,やはり見直しの時期なのだと思う。最近では,映画やテレビ番組などの商業作品を直接配信するサービスの存在感も高まっているので,投稿動画に頼りきった<ruby><rb>鳴体</rb><rp>(</rp><rt>メディア</rt><rp>)</rp></ruby>の発展は期待出来ない。
テキスト献典の可能性はまだ探究され尽していない。今後しばらくは,テキストを中心に献典の柱を作り,画像や音声,動画と段階的に射程を拡大していく,という戦略が最有力であり続けるだろう。
もう一つの大きな変化は,「用者生成」からの脱却だ。
これまでのインターネット<ruby><rb>献典</rb><rp>(</rp><rt>コンテンツ</rt><rp>)</rp></ruby>は,UGC(用者生成献典)と呼ばれるような,<ruby><rb>用者</rb><rp>(</rp><rt>ユーザー</rt><rp>)</rp></ruby>の投稿によるものが主流だった。そしてサービス提供者は,そのプラットフォームを拡大することに主な関心を抱いてきた。実はこの体制も将来的には変わっていく可能性がある。
用者生成の問題点はいくつも指摘できる。例えば,用者層の変化に<ruby><rb>鳴体</rb><rp>(</rp><rt>メディア</rt><rp>)</rp></ruby>の質が依存してしまうことも大きい問題点だ。黎明期には嗅覚の鋭い<ruby><rb>詮趣</rb><rp>(</rp><rt>センス</rt><rp>)</rp></ruby>ある用者が集まって場を盛り上げてくれるが,拡大期になると二番煎じのような投稿が増えてつまらなくなってくる,ということは起こりがちだ。
また,犯罪や著作権がらみの法的問題を抱えやすくなったり,質の高い献典を集めるには用者への収益分配などが必要になる。結局のところ,他人の著作物に依存している限り安定して高い収益をあげることは出来ないということだ。これを理解して,献典供給に力を入れる企業もあるが,顕著な成功例はみられない。多くの企業は,用者の著作物で人を集めて,後出しのように自社献典を供給しはじめるので,用者によって成り立っている媒体の影響力に提供企業の貧弱な制作力が便乗しているだけ,という実態になりやすい。企業が下手な自社献典で用者の興を削いでしまえば元も子もない。
つまり,これからはサービス提供者に献典制作者としての資質が求められていくということだ。自社制作の献典を中心として利益を着実に確保し,鳴体の指針をしっかり示しながら,その機能を段階的に公開し,用者とともに文化を形成していく,というのが理想だ。
最後に,統合指向への転換も見逃せない変化だ。
どんな文化にも,開拓期と統合期の循環がある。開拓期には,開拓者たちの自由な模索によって,様々な方法が編み出される。開拓期が進行するにつれ,新しい発見による利益よりも,不統一による混乱や煩雑さが問題になってくる。そこで,各々の方法を整理統合する必要が生じ,統合期に入る。
これはそのままインターネットにもあてはまる。乱立している様々な形態のサービスを,いかにシームレスに統合出来るか,ということが重要な課題になる。
テキストと自社献典を中心に,長期戦に耐えうる足場を固め,あらゆる種類のサービスを統合していく。これは,10年代後半のインターネット サービスにおける最も有力な戦略といえるだろう。