{『希哲新聞』}{目標}{月光}{時記}{公開}(5)

{「希哲新聞」の実現に向けて K#F85E/A705}

希哲館には,「月光」というシンメディア(symmedia,綜媒体)構想がある。これは,月庭を嚆矢とした,メディア全域の綜合的な開発構想だ。この中には当然,新聞雑誌ラジオテレビといった旧来のマスメディアと重なる分野もある。

シンメディア構想においては,旧来のマスメディアオールド メディア,および現状の新興メディアインターネット メディアを「アシンメディア」(asymmedia,非綜媒体)と呼んで区別している。旧来のマスメディアの停滞と,新興メディアの腐敗を反省し,これを乗り越えることを志向する。新興メディアの腐敗とは,旧来のマスメディアに対する批判を背景としていた新興メディアが,成長するとともにマスメディアの論理にのみこまれていき,結局は煽情的で卑俗な手法で注目を集めるメディアの一つに過ぎなくなってしまう現状を指している。

新興メディアの腐敗という現象は,核となる情報技術力の不足,あるべきメディアの姿を描くビジョンと旧来のマスメディアに対する批判精神の不足,独立心の不足が引き起こしている。日本においては,IT 企業が独立的に社会を牽引できるほどの実力を持ち合わせていないため,どうしても旧い業界と癒着的になり,資本的にも精神的にも旧い業界に同化してしまう傾向が強い。国内におけるマスメディア批判というのも,インターネットを万能視するばかりで,マスメディアの本質が大衆性にあるという事実を見過した稚拙なものが多かった。つまり,テレビだろうとインターネットだろうと,大衆に媚びようとすれば悪い意味でマスメディアになりうるのだ,ということを無視しがちだった。

私自身は,昔からこういうことを語ってきたので,このような論点がいかに「ウケない」かを身をもって知っているが,理性のみに従って「ウケない」ことを平気で言い続けられることが重要なのだと思っている。真の意味でマスメディアを超えるということは,その奥底にある大衆性に代わるメディアの原理・動機を掴み出すということであって,少なくとも希哲館と希哲社,そして私はそれを獲得している。

技術的な論点から言えば,「テレビとネットの融合」などがアシンメディアにおける伝統の議論だったが,シンメディアはその名の通り「融合より綜合」を志向している。テレビとネットの融合が失敗し続けてきたのは,そもそも誰もテレビとネットの特性を正確に分析できておらず,それにも関わらず性急に一本化しようとばかりしてきたからだ。理念だけが一人歩きし,具体的にどうメディアが発展し,面白いコンテンツが生まれるのか,魅力を提示することも出来なかった。これも,メディア論,メディア観の貧弱さが背景にある。

綜合というのは,要素の長所短所を厳密に見極め,それを精密に組み合わせることだ。従って,シンメディアは,あらゆるメディアの形態を取りつつ,それらが強力かつ整然と協調するような仕組みを理想としている。理論,技術,コンテンツ,あらゆる面で希哲館はこの準備を進めている。

月庭の次に着手するとすれば,新聞か雑誌の分野が適当だろう。新聞には月草というコードネームを与えているが,一般向けには「希哲新聞」ということになるだろう。もっとも,いまは月庭の開発だけでも非常に忙しいので,実現は当分先になると思う。気を引き締めるためにも,高い目標を思い返してみた。