昨日,なんとなく映画『風と共に去りぬ』を半分ぐらいまで観ていた。長すぎて(4時間近くある)全部観る暇はなかったのだが,スカーレット・オハラを演じるヴィヴィアン・リーの美しさは良く分かった。
この映画,たぶん子供のころに何度か観ているのだが,なにぶん子供なので内容もまともに分かっていないし,ヴィヴィアン・リーの魅力も良く分かっていない。大人になってみると,ちゃんと観た方が良いと思いつつ,長すぎる上に古典ということで肩がこりそうなので敬遠してしまう。この手の古典的名作・名女優で,大人になってからやっと魅力を理解したものといえば,『メリー・ポピンズ』とジュリー・アンドリュースもそうだ。
ヴィヴィアン・リーは,いまだに世界有数の美女として名高い。昔から知ってはいたが,改めて映像を観るとやはり美しい。少女のような無邪気さと気品,妖艶さがここまで調和していると,かえって劇中の男性達が冷静すぎるとすら感じられる。もちろん,劇中でもスカーレットは十分モテる存在だ。しかし,それどころで済むか,という気がする。
ここで何かを思い出した。そうだ,先日描いた,映画『かぐや姫の物語』の評(映画『かぐや姫の物語』の残念なところ)だ。この中で,私は生意気にも「ジブリ作品は美女を描けていない」だとか「かぐや姫がそこまでモテるようには見えない」という意味のことを書いている。『かぐや姫の物語』では,「男達を虜にする絶世の美女」としてのかぐや姫を,いつものジブリ作品のヒロインのように描いてしまっているため,高貴な男性達が血眼になってかぐや姫に求婚する様が,どうしても滑稽に見えてしまうのだ。
それと対照的なのが,ヴィヴィアン・リー演じるスカーレット・オハラだ。スカーレットが美しすぎて,男達の熱意は足りないように見えるし,恋愛の場面では突き離され過ぎているようにすら見える。もちろん,現実にはどんな美女だって飽きられもすれば失恋もするだろうが,映画の世界ではまったく男達に共感できない。死後50年近く経っても世界の映画史上有数の美女と謳われている女性が,高々「ミス・ジョージア州」程度の扱いなのも納得できない。現実なら,噂を聞きつけてアメリカ中から富裕な男性が集まったり,有名な画家がモデルにしたがりそうなものだ。それこそ,かぐや姫のように。