(呉・漢:アイ; いとしい,めでる,まな,おしむ,かなしい)
今日も休めないかと思ったが,意外と良い感じに肩の力が抜け,最低限のまとめ作業だけしてゆっくり過ごせた。昼頃散髪に出かけ,帰ってから誕生日であることに気付いた。折角の誕生日くらいはと自分に言い聞かせて半休にしていた。
38歳という年齢には,思っていたほど感傷も感慨も無かった。強いて言えば,38歳という若さでよくここまで来られたと思う。これは希哲館事業の巨大さゆえの感情だろう。大事業にとって人生がどれだけ短いか散々思い知らされてきた。
若さというのは本当に相対的なものだなと最近よく思う。20歳くらいの若者がもう若くないなどと嘆いていると滑稽に思えるが,自分が10代や20歳そこそこだった頃も若さを満喫出来ていたかというと,そんな余裕は無かった。無力にもがき,幼さを憎み蔑んでいた。自分の若さを楽しめるようになったのは30代からだ。
老いへの恐怖は後悔と似ている。少なくとも,あの頃に戻ってやり直したいと思うことが無いのは幸せなことなのだろうし,これからもそういう最善の日々を生きたい。一昨日友人と話していてそれを再確認した。
体調は持ち直したが,考え事が多かった。というより,ここ数日の脳疲労の一因がこの考え事にあることに気付いた。
10月から長期戦態勢に転換し,時間に追われることなく悠々自適な生活を送っていたが,第三次快調期といっていい最近のデライト開発で,また危険な欲が出てきている。
デライトが進歩すればするほど,更なる進歩のための時間が欲しくなる。時間を捻出するための金も欲しくなる。とにかくこの疾走感を失いたくない,という感情が日毎高まっている。そして,今のデライトにはすぐにでも完全な成功を果す力がある,という期待感もまた日毎高まっている。
一方でこれは,希哲館事業を危険にさらす衝動でもある。このまま悠々自適な長期戦態勢を維持すれば,いつになるかはさておきデライトの完全な成功は確実に果せるだろう。しかし,それを希哲館事業の理想の実現に繋げるためには,やはり早さが必要になる。冒険を避けていては,その可能性が時間とともに失われていく。
希哲館事業にとっては,急いても待っても崖っ縁だ。無理をしてもいけないが,悠長に構えていてもいけない。ここ数日,激しいせめぎあいが続いていた。
一刻も早い希哲館事業の成功のために全てを賭けるか,確実な成功のために危険を徹底的に排除するか,という両極端な思考に陥いっていることに今日ふと気付き,「ばら成しを取る」という選択肢が見えてきた。最低限の安全網は確保しつつ,しっかり冒険もする,という道を探ることにして,ようやく気持ちが落ち着いた。
昼頃,希哲荘の古い給湯器がついに壊れて湯が出なくなった(整清記録)。
最初は,この忙しくて寒い時期に,と少し腹が立ったが,17年以上持ち堪えたかと思うと,だんだん感謝の念が湧いてきた。希哲館事業のために,色々な物や人に無理をさせてきたんだなと感傷的になったりもした。
そんな気持ちが通じたのか,深夜になってなぜかまた湯が出るようになった。新しい給湯器が来るまで持ってくれれば大助かりだ。
一応,給湯器が使えなくても何とかなるように対策は講じておいた。久しぶりの非常事態で,あれこれ試行錯誤するのもちょっと楽しかった。
寝食を忘れたような作業を続けてきたので無理もないが,日中は疲労感が強かったので半休にした。
第二次用合い改良と輪郭小窓実装の成功による解放感と満足感で,身体が先に休みに入っている感がある。用合い改良は一区切りついて新生全知検索整備に入れるようになったものの,明日は月末の雑務もあり,準備程度のことしか出来ないだろう。早めに今月のまとめを始めた。
輪郭小窓とここまでの第二次用合い改良は,開発者心理への印迫も想像をはるかに越えて大きかった。
出振るい後,「新生デライト」の定義も揺さぶられている。少なくとも用者体験の面ではすでに新生デライトと言うべき域にある。新生デライトの要件としていた当努はまだまだ残っているが,初見者が一番先に触れる部分でもある輪郭小窓を越える印迫はないだろう。
上旬の時点では,上旬中に輪郭小窓実装を終えて中旬中に機能実装・文書整備を大方終えたいと思っていた。だから輪郭小窓実装がなかなか終わらないことに多少の焦りがあった。しかし,実際に触れるようになってみるとそんな感情も吹き飛んでしまった。一ヶ月の収穫としては大き過ぎるくらいだ。
デライト開発では本当によくあることだが,これも計画に対する直感の勝利と言える。この収穫を活かして組計を練り直すことにした。