先日,『SNS と社会分断』という文章を書いた。しばらくして,ふと,昔に比べ「クラスタ」という概念を意識することが少なくなっている,と気付いた。
いわゆる SNS では,「フォロー」などと呼ばれる機能を通じて,情報を受け取る相手を選ぶことが出来る。目に入れたくない相手は「ブロック」などの機能で拒絶することも出来る。このような選択を繰り返して,自分にとって快適な情報媒体を構築することが出来る,というのが SNS の特色だが,そこには各々の関心や好みに基き,自然と村のような集合体が形成される。これが「クラスタ」だ。
当然,クラスタには認知バイアス(偏見)を助長する面がある。例えば,昔の先駆的な Twitter 利用者たちは,このクラスタという言葉を自戒の念も込めてよく使っていた。つまり,クラスタという世界の狭さと負の側面を理解しつつ,上手くその利便性を享受する,というのが「情報強者」を自認する彼らの「粋な振舞い」であり,情報リテラシーの一部だったわけだ。
それから十年ほど経ち,全社会的に SNS が定着した今,日本国内でも数千万人いるという SNS 利用者の全てがそんな意識を持っているとは考えにくい。今や「クラスタ」は一部の古参やヘビーユーザーが共有しているネット用語に過ぎなくなった感がある。
SNS と社会分断の問題を考える時,昔からネット慣れしている人ほどクラスタを意識的に捉えてしまいがちだ。しかし,現実に起こっていることの深刻さは,多くの SNS 利用者が「それと知らずに」クラスタに取り込まれている,ということにある。