激化する SNS 戦国時代の中で,サービス文化について考えさせられることが多い。今日はちょっと面白い発見もあった。
以前にも SNS におけるオタク文化について考えたことがあるが(3月1日の日記),依然としてその影響力は強いと感じる。例えば,Misskey の猫耳機能などは私の価値観からすると完全にありえないものだが,そういう部分があることでオタク層からの信頼を得ている面はあるだろう。誰かにとっての「居心地の良さ」を提供することは SNS の核心であって,Misskey はまだ小規模ながら興味深い事例ではある。
最近でいえば,Threads の急速な台頭によって,キラキラした Instagram 的な場に対する「ドブ川」としての Twitter に,想像以上に多くの Twitter 用者が想像以上に強い愛着を持っていることが分かってきた。「陽キャ」に対する「陰キャ」のコミュニティであるという意識もやはり根強いようだ。それは単なる自虐というより,昔から言う「明るい人気者ほどつまらない」とか「面白い奴には根暗が多い」とか,その種の含みがある。
確かに,自分が好きだったお笑い芸人なんかを振り返ってみても,根暗でひねくれていた人ばかりだ。そういう人が,業界で一定の地位を築いて妙に社交的な「明るい人」になったりして,つまらないことで笑うようになり,かつての面白さを失っていく,という哀しい現象もよく見てきた。
明るい人というのは箸が転んでもおかしいという人なので,日常にそこまでひねりの効いた刺激は求めていないのだ。Twitter 用者が Instagram 的な SNS に感じるつまらなさとは,こういうことなのだと思う。
幼稚なデマに煽られやすいなど,全体としては知的脆弱さが目立つ Twitter ではあるが,役立つ投稿や面白い投稿が比較的多いことは認めざるをえない。学問も文芸も,多少ひねくれていたり,オタク気質だったりするくらいが丁度良いからだろう。その点で,Twitter 文化にはマイクロブログ型 SNS における確かな優位性がある。
そういう観点からデライト文化について考えてみたら,対 Twitter 戦略なんて無理筋じゃないかと一瞬思いかけた。というのも,デライト文化の種子たる私自身が,人間の限りない可能性と限りない成功に対して限りなく楽天的な性格であって,その実現のためにデライトを開発してきたからだ。サービス名を〈delight〉(歓喜)にかけているくらいなので,そもそもデライトはこの上なく明るい気分から生まれている。そういう意味では,インスタグラマーも真っ青なキラキラ志向なのだ。
単純な話,Twitter が陰キャ寄り,オタク寄りの SNS だとして,デライトがそうでないとすると,どうやって用者を移行させるのかという問題がある。ここまでのデライト運営の実感としても,Twitter をはじめとするマイクロブログ型 SNS からの訪問者は,明らかにデライト文化に引いている。
そんなことに思い至った時,この頃,全く別の文脈で自分の性格についてよく考えていたことを思い出した。
ここ数年くらいで確信を深めていることなのだが,どうも私は病的に明るい性格らしい。希哲館事業の経験を積む度に,自分の明るさに助けられていると感じることが増える。
世界初の実用的な知能増幅技術であるデライトによって知識産業革命を起こし,かつてのイギリスのように,国家模体として日本を極大国(ハイパーパワー)に成長させ,その日本によって知識産業を中心とした新しい国際秩序の形成を主導する,ということを大真面目に実践しているのが希哲館事業だが,まず,並大抵の精神でこれを支え続けるのは誰がどう考えても不可能だ。
常人がなんとか続けたとして,40歳近くにもなれば頭髪は白髪で真っ白なら良い方で,全部抜け落ちていてもおかしくない。顔は若く見えて60歳相当には老け込んでいるだろう。
ところが,現実の私は,実年齢よりもずっと若く見られることが多かった。ここ数年はデライト開発でだいぶ生活も乱れたのでどうか分からないが,少なくとも,年齢相応の苦労を重ねてきた男性の顔には見えないな,と自分でも思うような顔をしている。20代の頃はあまりにも幼く見えたので,むしろ老けたくて仕方なかったくらいだ。希哲館事業構想の一環として三船敏郎のように強い日本人の象徴となる顔が必要だと10代の頃から考えていた私にとって,幼さに対する混複は非常に大きかった。
表情もまたなんとも楽しげで,実際これが毎日楽しいのだ。クスリでもやっていないとおかしいくらいだ。実際にはクスリどころか酒もたばこもやらないのだが,たまに,自分が知らないうちに麻薬でも打たれているのではないかと考えてしまうことがある。毎日デライト上に記録している通り,生活はかなり健康的な部類だろうと思う。
この未曾有の重圧にしてこの気楽ぶり。環境に恵まれているというのも大きいが,それだけでは説明し切れないものがある。
思い出すのは,「子供の頃は姉と一緒で明るい子だった」とよく言われていたことだ。姉が非常に明るい性格のまま育ったのに対して,私はある時期から考え込むことが多くなり,人付き合いも口数も減っていった。その先に希哲館事業があるわけだが,いま思うと,希哲館事業のとてつもなく巨大な影を丸呑み出来るだけの根の明るさがあったのだろう。
世界の思想史を通観して,思想家として捉えた場合の自分の特異性について考えると,やはりこの明るさに行き着く。『考える人』しかり,思索にふけっている人なんて大体みんな憂鬱そうな顔をしている。私自身の体験を振り返っても,いわゆる明るさと思慮深さを両立させるのは難しい。思考というのは脳を占有し疲労させるものなのだから,科学的な説明もそう難しくないはずだ。私のように「笑いながら考える人」はそういない。
これは SNS における明るさと面白さの両立という課題にも通ずるのではないかと思ったわけだ。Instagram や Threads などの「つまらない明るさ」はテキスト向きではない。かといって,「面白い暗さ」の Twitter も SNS としては長らく伸び悩みの状態にある。デライトの個性を「面白い明るさ」という第三の道と捉えると,むしろ大きな希望に思えてくる。
一昔前でいう月9が Instagram 的なもの,昼ドラが Twitter 的なものだとすると,デライトが目指すべきは日曜劇場,つまり,『JIN』や『半沢直樹』のような世界なのかもしれない,などとも思った。キラキラでもなくドロドロでもなく,ギラギラという感じだ。
特に『JIN』は,希哲館事業発足から間もない頃に放送されていて,奇妙な運命を背負ってしまった主人公と自分を重ねながら観ていた想い出深いドラマだ。気付けば南方仁と同じ年齢になっているのもなんだか感慨深い。
(書きたいことはまとまっていたが書き終えるのに20日までかかってしまった)
添付譜類はあくまでも添え物として最小限の役割に留め,エクスポート機能でも実譜類の出力には今後対応しない方針を固めた。
元々添付譜類は添え物として設計しているが,実際に譜類添付機能が出来,エクスポート機能を実装しようとしてみると,実質的な役割の落とし所が意外に難しい。意図に反して,変に使われ過ぎるのも問題だ。
エクスポート機能では,とりあえずは代替 HTML などで済ませ,ゆとりが出来たら実譜類にも対応するか,などと考えていた。そもそも,どんな大企業のクラウドであれ消えて困るような譜類の唯一の保管場所にすべきではないし,そこまで神経質な人が手元に抜控を持っていないということも考えにくいので,実はさほど必要性の高い付徴ではない。とはいえ,エクスポート時の負荷や帯域だけが問題なら金で解決出来るのだから,将来的に対応しないというほどの動機もない。
しかし,添付譜類がエクスポート出来てしまうことで譜類倉庫的な利用が増え,それに伴い譜類保全の責任が増せば,将来にわたって無視出来ない経営上の問題になる。ということについさっき気付いた。描出公開原則同様,ここは割り切った用者文化を育てていくべきだろう。
これに気付いてみて,最近,添付譜類の役割を広げようとし過ぎていたことにも気付いた。譜類添付機能のサイズ上限や拡張子制限の緩和も考えていたが,これも最小限に留めることにした。拡張子制限は制危面もあるが,献典として非効率だったり無意味だったりする譜類の上信抑止といった効果も望める(例えば .bmp
をそのまま上信して欲しくはない)。
デライトの強みは,知番による意味符号化で文字献典の情報密度を極限まで高め,その軽さを最大限に活かせることだ。譜類倉庫的な方面で消耗するのは差別化戦略として明らかに悪手だ。譜類添付機能実装以降,その軸が微妙に揺らいでいることはうっすら感じていた。今日は妙に頭がもやもやしていると思ったら,どうも脳がそれを訴えていたらしい。気付いたら非常にすっきりした。
描出公開原則のように何かこの方針に名前を付けたくなったが,「譜類添付機能」という名前で趣旨は表現出来ているので,それに立ち返るということで十分だろう。
そろそろ身体を休ませないと心配だが,脳が自動的にアイデアを生み出してしまうので休むに休めない。
ここ一週間ほどの間で,停滞していた当努や眠っていた当努の課題が連鎖的に解決し,一斉に動き出している。一方で,検討作業・まとめ作業に時間がかかり実作業が滞りがちになっているのが気になる。
今日は特に,最後の検討作業(18歩)が神がかり的だった。これまで大小数多の奇跡を経験してきたが,ちょっと感じ入るものがあった。
しかし,こういう「奇跡」を経験する度に脳裏をよぎるのが,一番起こってほしいのに起こらない奇跡についてだ。こんなに信じられないことばかり起こるのだから,例えば,デライトが何かの偶然で人気を集めたりしてもよさそうなものだが,そういうことはまだ起こらない。
サッカーでいえば,ゴール前で何百回と奇跡的なパスが飛んでいるのに一回もゴールが無いような状況だ。これはこれで奇跡的と言えなくもないが,そんな皮肉な奇跡は要らない。まあ,それがデライトの完全な成功の前にある壁なのだろう。ネズミも通れないような隙を突いてボールをねじ込むしかない。
ここのところ,せっかく風呂を沸かしても作業に熱中して遅くなり入り損ねる,といったことが続いているため,入浴は意識して早めにすることにした。
身内のコロナ陽性者は快方に向かっているようだ。本人にも周囲にも私自身にも深刻な影響は無く,とりあえず安心した。