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新元号・令和への改元に日本が沸き立ってからわずか一ヶ月,陰惨な事件・事故が相次いだことで早くも令和に不吉なものを感じるという人が散見される。
一人の天皇の在位中に一つの元号のみを使うという慣例が出来たのは明治からで,それも先帝まで存命中に退位することは考えられていなかったため,令和は近代以降初めて「人為的に区切られた元号」ということになる。
令和への改元が極めて計画的に行われた,ということは当初歓迎されていた。崩御で暗い気分にもならず,準備も予め出来たからだ。しかし,ここに落とし穴があったような気がしてならない。
よく知られているように,近代以前の元号は凶事等があると気分転換のように変えられていた。現代人から見ると迷信的なようだが,元号というものが「時代の象徴」としての意味を持たされていることを考えれば,実は当然のことだったのだろう。
何が言いたいのかというと,令和は「人為的に始められたのに人為的に終わらせることが出来ない」という意味で,日本の歴史を振り返ってもかなり特異な元号になっているのではないか,ということだ。
令和最大の誤算は,改元の日でもある天皇陛下の即位を5月1日に設定してしまったことかもしれない。極めて計画的に,過熱した祝福ムードの中で「新時代」を祝った反動が,五月病や景気後退局面と重なってしまったのだ。
自殺についての報道が新たな自殺を喚起するという「ウェルテル効果」のように,マスコミが憂鬱な気分を拡大させている面も否定出来ない。実際,男性が息子を刺し殺した事件では,川崎殺傷事件の影響があったと供述されている。
仮にこうした悪循環が続いていったとしても,現行の元号法では皇位継承が無い限り改元は認められない,という状況にある。令和が悪い時代になると決まったわけではないが,これからずっと元号制度を維持していくのであれば,最悪の場合を考えた制度の見直しは必要だと感じる。
何が起きようと元号なんて関係ない,と言ってしまえば元号の意義を損うし,元号に何か意味を持たせようとすれば悪いことだけを無視するというわけにもいかない。日本人は元号についてあまりにも無理解だったのだろう。