私が「全ては言語なのだ」と語るとき,ある人は「そんなわけはない」と反論するかもしれない。しかし,この時点でその反論者も「言語劇場」の舞台に上がってしまっていることになる。言語という虚構の中にあって,言語は真実らしく語られることを運命付けられている。これが言語というものが持つ本質的な演劇性だ。この考え方は,むしろ言語に対する諦観が無ければ成り立たないという意味で,言語的思考と非言語的思考の究極における調和でもある。
「言語演劇(language-theatre)」は,宇田川の用語。また「言語場(界)の理論」とともに研究している概念。
言語活動を「演劇」と捉える事で,非言語的世界の肯定と,明晰な言語による表現を対立させる事なく,相補的に両立させる考え方である。
演劇には,「虚構であるという前提で真実を演じる」という不思議な性質がある。作りものの舞台上で,役者は真実らしく世界を表現しなくてはならない。また,観客も同様にその世界に真実を見出そうとする。もちろん,それが真実でない事は誰もが知っていて,演劇そのものは劇場の外にある世界,そこに住む人々を豊かにするためにある。
我々にとって言語は精神的活動の大きな部分を占めているが,言語で表現できない事の重要さも確かに感じている。しかし,「非言語の重要性」について言語的に執着し,言語で語ってしまう事は,あたかも気の狂った役者が演劇の舞台で「これは虚構なのだ」と叫んで観客を白けさせるようなものである。そしてこの手の,発言者や議論の場を混乱させているだけの錯誤は少なくない。
名優はその演技の巧妙さによって現実と虚構を混同する訳ではなく,むしろそれぞれの役割を鮮明にし,より善い(少なくともマシな)ものにするのである。この考え方の適用が,より有益な言語活動に資するのではないかと考えている。なお,宇田川はどちらかといえば神秘主義的な思想に大きな影響を受けている。
ちなみに当初,日本語では「狂言」が端的な表現と思えたのだが,既に一定の用法があり,「言語狂言」としても語が重複して違和感があるので見送った。「言語○○」というのはウィトゲンシュタインの用語「言語ゲーム」に対照させた言い回しである。