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{クロスプラットフォーム幻想の終焉 K#F85E/2510-5C2D}

私はいつの間にかクロスプラットフォーム〈cross-platform〉に対する批判者のようになっているが,もともと熱烈なクロスプラットフォーム信奉者だった。だからこそ,その限界に気付くのが早かったのかもしれない。

クロスプラットフォーム開発は,そう遠くない将来に衰退するだろうと私は考えている。クロスプラットフォームから「クローズプラットフォーム〈close-platform〉へ,マルチプラットフォーム〈multiplatform〉から「ユニプラットフォーム〈uniplatform〉へ,そしてフライング プラットフォーム〈flying platform〉へと発想が転換していくだろう。

「プラットフォーム」地獄

プラットフォーム独立〈platform independent〉のようなものが幻想に過ぎないことは,恐らくクロスプラットフォーム開発等を深く研究してきた者ほど痛感しているのではないだろうか。クロスプラットフォームというのは,決してプラットフォームからの自由を意味しない。特定の論組〈プログラミング〉言語(開発環境)ライブラリが新しい「プラットフォーム」になるだけだ。こうして無駄な抽象化が増え,想品ソフトウェア〉は不毛な肥大化を続ける。

ここでいうプラットフォームとはほぼ OS のことだが,そもそも OS は働品ハードウェアの抽象化を主な目的とするものであり,少なくとも理論上は統一可能なものだ。その障壁になっているのは,開発思想(無償・有償の違いを含む)価格の違い,Apple に代表される有力な働品銘家〈ハード メーカー〉でもあるプラットフォーマーの戦略など,あくまでも社会的な事情だ。本来,働品と異なり想品である OS には分裂している(多様である)こと自体に利益はない。規模が大きければ大きいほど用者ユーザー〉にとっての利益も増すため,シェアは自然に集約していく。これは,デスクトップ PC における Windowsスマートフォンにおける Android など実例には事欠かない。

プラットフォームは空を飛ぶ

しかし,そのプラットフォームを巡る社会環境も大きく変化している。まず,Windows を例外として主要な OS が Unix 流 に集約され,FLOSS の地位も大きく向上していることがある。一昔前まで,プラットフォームといえば独占的なものであり,共通化・標準化も今よりずっと遅れていた。現在では,Linux を利用すれば個人でも十分実用的な OS を開発出来る。また,仮想化技術の発展によって,OS を気軽に試すことも出来るようになった。そのような状況の中で,開発力のある企業にとってクロスプラットフォームの意義も大きく揺らいでいる。

もちろん,スマートフォンタブレットの普及により,昔とは別の意味で対応しなければならないプラットフォームが増えた面もある。これに関して,私は「無視」することを勧めている。つまり,過渡期を乗り越えるためにウェブを二次プラットフォームとして活用し収益源を確保しつつ,その一方で Linux を基礎に本命の OS 開発を進める。高水準開発と低水準開発の二刀流というわけだ。もちろん,目的は世界で戦えるプラットフォーマーとなることだ。

この戦略を私はフライング プラットフォームと呼んでいるが,既にこれに似た戦略で大成功を収めた企業がある。他でもない Google だ。Google は,検索を核としたウェブ サービス群で知名度と収益を上げ,Linux を下敷きにした Android を普及させた。現在では時価総額世界首位の企業(Alphabet)になっている。希哲社の戦略が Google と被っていることに気付いたのは Android が普及したころだが,私も希哲社の戦略については相当考え抜いているので,先を越されて悔しいような,確信が深まって嬉しいような複雑な心境だった。

それはともかく,プラットフォームを横断するのではなく,プラットフォーム自体を「飛ばす」,つまり導入の敷居を徹底的に下げて飛躍的に普及させ,その上で開発資源を集中投入するという戦略が極めて現実的なものになりつつある。それにより,徹底的に最適化され無駄を削ぎ落した想品群を提供出来るようになる。クロスプラットフォームが衰退していくだろうという予測は,この戦略で台頭してくる企業の存在を前提としている。

プラットフォーム心中

この戦略には,最後の鍵がある。いわゆるキラー アプリケーションのような,そのプラットフォームならではの魅力だ。

クロスプラットフォームに限らず,想品が過度な抽象化傾向にある理由として革新的かつ魅力的な想品の不在がある。どの分野でもある程度の型が定まってきてしまい,差別化の計りようがなくなってきているわけだ。そこで,どんなプラットフォームでも動くというようなことに関心が集まる。要するに,「八方美人化」してしまう。こうなると開発資源も分散しがちで,ますます大胆かつ質の高い想品開発が出来なくなってくるという悪循環に陥る。

多少荒削りで頑固で融通が効かなくても,それを補ってあまりある魅力がアプリケーションにあれば人は無償プラットフォームの導入ぐらい苦にしないものだ。今こそ「プラットフォームを使わせるアプリケーション」をプラットフォームと一体となって開発するべき時だと私は思っている。