{社会}{尾翼}{左翼}{右翼}{公開}{政治}(6)

{左か右か K#F85E/E8CA-FAF7}

このごろ,「左翼」や「右翼」といった言葉をよく見かけるような気がする。日本政治的・経済的に行き詰まりつつあるためか,極端な思想が増えているのかもしれない。

日本人は一般に政治的な議論を忌避する傾向にあると言われるが,人間は政治と無関係ではありえず,言論に関わる者には政治と向き合う勇気が求められる。政治的発言というのは,その人の思想を丸裸にするようなところがある。恥ずかしがり屋で無難を好む日本人にとって,政治的な話題ほど煩わしいものはないのだろうし,実際,かくいう私も少しだけ気が重くなるのは確かだ。

特にこの月庭では,主張に広告を貼ることも出来ないため,この手の話題に絡んで得することは何も無い。それでも政治について書くのは,言論の質に寄与すべき希哲館における義務だと思っている。

「中立」を超えて

私は「中立」という言葉が好きではない。時として必要ではあるが,尊ぶほど良い概念ではないと思っている。人間は完全に中立ではあり得ないので,多かれ少なかれそこに欺瞞が生じる。民主主義における「良い政治家」とは,「良い主張をする政治家」ではなく,「誠実な主張をする政治家」だ,という私の持論がある。どんなに偏った主張でも,言葉に偽りなく,信念を貫いてされるのであれば,有権者の選択肢を創出しているという意味で良い政治家だと言える。

それを踏まえて,私は偏った主張を正直にするのが自分の務めだと思っている。それを好きになるも嫌いになるも読者次第だが,少なくとも欺かないということが全ての読者に対する最大限の誠意だからだ。ところが,私は自分が左翼的なのか右翼的なのか,実はよく分かっていない。厳密に言うと,どちらでもないことが分かっている。その意味では,結果的に中立に近い立場なのかもしれない。

それというのも私は,中道に対しては「綜道」を,左翼右翼に対しては「尾翼綜道尾派を,保守革新に対しては「累新」〈ルネサンス〉を標榜し,いまのところ架空の「希哲党」を支持する人間であり,少数派〈マイノリティ〉どころか単数派〈モノリティ〉とでもいうべき政治的孤立者なのだ。

ヘーゲル風に言えば,具体的普遍性の探求者といったところか。

面白い誤解

希哲館事業を始めてからしばらくして,私は意外にも自分が「右翼的」とみなされていることに気付いた。その理由は恐らく,日本語や日本的な意匠を重視・多用していることであったり,左派に対して攻撃的な論調が多いことによるのだろう。これはなかなか面白い誤解だ。

私自身は,どちらかというと自分が極端に「左翼的」とみなされることを恐れていた。社会主義共産主義の類こそ批判する立場だが,私は独自に「希求主義」という理論体系を構築しており,その規模は共産主義のそれを凌ぐ。その中に,希哲民主主義経済における疎通主義といった諸理論も含まれているが,それはごく一部に過ぎない。

希求主義に関して語り出すと収まりがつかなくなるので今回は最小限に留めるが,いわゆる共産主義と異なり,国家市場経済の役割を肯定的に捉え,伝統文化宗教などに対しては平和的である限り尊重し,正当防衛以外の暴力の一切を明確に否定する。

文化面でも,伝統の先に革新を見出す,つまり「累新」を重視するため,世界主義に立ち日本文化を相対化しつつ,その美点を可能な限り引き継ごうとしている。この運動がいわば種子として世界中に広がり,それぞれの土地で開花すれば,自律的で多様な文化が互いに刺激し合い,より洗練されていくだろう。ここでも意志の尊重と自発性が重要だが,その自発性を育てるための仕組みが希哲館だ。

こうしてみれば,私の思想は「左か右か」ではまったく割り切れないことが分かる。ただ,篩にかけるように,左右に振ってみてはじめて浮かび上がってくるものもある。この文章を読んだ者の多くはなんとも言えない読後感を得ると思うが,それは私が孤立しているということであり,結果的に中立に近いということでもある。