先日,「自称芸術家」の女性が,自身の性器の形状を 3D スキャナーで読取り,3D プリンターなどで利用できるデータとして配布したとして逮捕される事件があった。
この際,警視庁の発表で「自称芸術家」という表現が使われた。これを巡って,警察やマスメディアの悪意,あるいは怠慢を指摘する声が上がった。要するに印象操作を真に受けるなということだ。
この件について,著名人としては鴻上尚史さんや伊集院光さんの発言が注目された。鴻上さん,伊集院さんの発言に共通するのは,「自称芸術家」という表現にもともと悪意があるという点なのだが,異なっている点がとても面白いと思った。鴻上さんは「それなりに活動実績があるのだから自称ではない」という意味のことを言っているが,伊集院さんは「芸術家って認められなきゃ名乗っちゃいけないの?」という意味のことを言っているのだ。
さて,まず「自称芸術家」に悪意があるか,という点についてだが,これは解釈側にもややバイアス(偏見)が認められる。「自称」という言葉は,確かに悪意を込めて使われることもあるが,もともとの意味は「自分で名乗っている」ということでしかないから,「自称芸術家」という表現は本来客観的なものだ。今回の場合,「自分で芸術家と名乗ってはいるが,世間的に確立した肩書きかは判断しかねる」という程度の意味だ。この点について鴻上さんは,女性の活動実績を挙げて「自称ではない」と言っているのだが,私は彼女についてこの事件で初めて知ったし,世間的にも広く認知されている人ではないだろうから,「自称芸術家」という表現に問題があるとは思わない。むしろ,それが大方の人の反応を考えると自然な表現だとすら思える。
鴻上さんは,警察の発表をそのまま受け取って報道したマスメディアを批判したのだが,警察もマスメディアもそこまで暇なのだろうかという疑問もある。彼らは日々膨大な事件を扱っていて,その一つとして今回の件を扱っているに過ぎないわけで,わざわざ彼女の実績を調べて,「芸術家」という表現が相応しいかどうかなんて考えている暇があるとは思えない。だから,無難な表現として「自称」を使っているのだろう。それは,例えば彼女に思い入れがある人にとっては気に入らないかもしれないが,「そう名乗ってはいる」という最低限の事実に即した表現だからだ。それとも,「芸術家」というのはネットで検索すれば簡単に分かるほど表面的なものなのだろうか。
むしろ,そのまま何の批判的態度もなく「芸術家」と表現されていたら,それはそれで問題だっただろう。伊集院さんは,「自称芸術家」と言うからには「芸術家」について分かっていなければおかしい,と発言したが,これは明らかに論理として間違っている。「芸術家」について分かっていない人間が,「彼は自分で芸術家と名乗っています」としか言えないよりも,「彼は芸術家です」と断言できる方がおかしいだろう。鴻上さんと伊集院さんの発言に共通する問題点は,「これは警察の悪意なんだ」という偏見から出発していて,そこに対する自己批判がないまま論を積み重ねているので,論旨全体が「砂上の楼閣」になってしまっているところだ。
「自称」も「芸術家」も,本来の意味以上に特別な意図が込められやすい言葉なので,「自称芸術家」という言葉に多くの人がひっかかりを感じるのは無理もない。特に,「芸術」の定義については専門的にも一致していない。しばしば,高尚さや文化的価値の高さと混同されることがあり,それゆえに何かを「芸術」と呼んだり「芸術家」と呼んだりすることは価値観の衝突から議論になりやすい。
これについては,鴻上さんはテレビの中で「彼女は本も出しているし、海外からインタビューもされている。もちろん漫画も描いているし、作品も売っているので、この人を『自称』というのだったら、ほとんどの人がみんな『自称』なんですよ」と言ったそうだが,これはちょっと首肯しかねる。本気で言っているとしたら,論点もずれているし芸術観も怪しい。鴻上さんの中で芸術というのは,やはり「ネットで文字を拾えば分かる」程度の表面的・形式的なことなのかもしれないと感じてしまう。片や,伊集院さんはラジオの中で「認められていなければ芸術でないというなら,ゴッホは死後芸術家になったのか?」といった趣旨のことを述べている。こちらの方がまだ鋭い。
簡単に私見を述べるなら,芸術とは「世界観を表現する技術」であり,芸術家とはそれによって生きる人のことだ。これは,何が芸術性とみなされているか,という一般的な感覚とも矛盾しない。
しばしば芸術性の対義語として扱われるのは商業性や娯楽性(性的なものも含む)だが,作品の芸術性は,作品が売れているかどうかとは独立している。売れなくても芸術としての価値が認められることはある。だから,売れないこと,つまり大衆に理解されないことが芸術的なのだという誤解すらある。ただ,大衆的な人気を得て,商業的に成功しながら芸術性を評価される例もある。有名な例では浮世絵がそうだし,ラファエロは版画の出版業でも成功している。つまり,商業的成功と芸術的成功は互いに独立しているといえる。娯楽的成功についても同じことだ。不遇と孤独の中で育まれる芸術もあれば,商業的成功の中で育まれる芸術もある。春画のように,表現者の世界観の中で性が中心になって悪いこともない。春画が芸術として評価されているのは,やはり一過性の性的関心を超えた熱意や技術が認められているからだ。何が芸術だったのかは,多くの場合,時間という篩(ふるい)にかけてやっと分かるものだが,注意すべきは,芸術だと理解されたことで芸術になるのではなくて,芸術だったからこそやがて芸術だと理解されるようになるということだ。
よく,専門家(プロフェッショナル)の定義として,「その専門で生活できること」ということが言われるが,これは「人並の収入が得られること」とは限らない。専門家を名乗れる収入の基準など,誰にも定められないだろう。商業的成功とは独立した価値を求める芸術家の場合ならなおさらだ。食うに困るような生活をしていても,芸術活動を心の糧に生きている人,芸術なくしては生きられないという人なら芸術家を名乗って何ら恥じることはない。だからゴッホは芸術家だったのだ。
「芸術」(art)というのは西洋的な概念だが,その西洋ではやはり神話や宗教にもとづく信仰生活と分かち難く結びついていた。神や徳といった,社会で共有している世界観を表現することに始まり,やがて個人の世界観を表現する技術になった。その中には,他人にくだらないと思われることもあるだろう。いずれにせよ,変わらないのは表現者が自身の世界観と表現技術を真摯に追求していることだ。ここまでの定義はあくまでも個人的なものだが,社会通念としての「芸術」とかけ離れているとは思わないし,その大部分を説明できるだろう。
さて,この定義を今回の件にあてはめてみれば,争点は,問題の女性が自身の世界観を探究し,表現する真剣な活動の一つとして性器を扱っていたのか,商売目的や単なる好奇心,自己顕示欲から性器をネタにしていたのか,ということになる。
個人的な印象では,(少なくとも組織的な)商売目的という線は無いだろうと思う。なぜかといえば(これはあくまでも弁護として受け取ってほしいのだが)件の女性に,特別 性的な魅力があるとも思えないからだ。性を売りものにするための人材としては中途半端すぎる。彼女のペンネームや活動の仕方はどちらかといえば「芸人」に近いように感じたので,恐らくそこは自覚もあるだろう。この手の商売をするなら,それこそたくさんの女優を抱えている成人向けビデオメーカーなどいくらでもあるわけで,出資者にしても彼女に大きな見返りは望んでいないはずだ。
ただ難しいのは,いかんせん性器を題材にするというのが注目を集める手段として安易なだけに,注目されたいという自己顕示欲だけで走っている可能性も否めないということだ。これについては多くの芸術がそうであるように,彼女が話題性を超えて残る何かを持っていれば,時間がそれを証明してくれるだろう。だから私はそれまで,彼女のことを「自称芸術家」としか呼べない。
やや厳しいことを言ってしまったが,鴻上さんと伊集院さん,どちらにも敵意はない。鴻上さんのラジオ番組はむかし聴いていたことがあるし,『深夜の馬鹿力』はいまでも聴いている。反体制的というのは言い過ぎかもしれないが,彼らは斜に構えた態度や歯に衣着せぬ発言が持ち味だし,テレビのコメンテーターだのラジオ番組だので「重箱の隅つつき」をするのが仕事のようなところがある。だから,今回の件についても,そこまで理論武装して取り上げたわけではないだろう。批判されたマスメディアと同じで,彼らにしても,一つ一つの時事問題に深く関わっている暇はないのだ。
私が問題視するのは,そんな彼らの発言をいちいち取り上げて安手の反マスメディア論をでっちあげているネット メディアだ。ネット メディアは昔から体制憎し,マスメディア憎しの感情で暴走する傾向があるが,「警察の発表をそのまま引用するだけなのは恥ずかしい」という趣旨の発言をマスメディアから引っぱってきてそのまま記事にし,マスメディア批判をしてみせた振りをしている貧相なニュースサイトはそれ以上に恥ずかしいと自覚してほしい。結局のところ,私が言いたかったのはこれだ。
マスメディアが無能であることに特に異論はないが,ネット メディアの進歩の無さにも閉口することが多い。これを批判するのがシンメディア(symmedia)たる月庭の役割だと考えている。
なお,伊集院さんのラジオの発言は直接聴いているので間違いないと思うが,鴻上さんのテレビでの発言はウェブでのみ確認している。ただ,ご本人が Twitter で引用されている記事なので,一定の信頼性はあると思う。また,問題になった「自称芸術家」女性については,いわゆる炎上商法の懸念が拭えないので名前を伏せた。
「忙しくて書けない」ネット メディアは未熟だが,もう一つの問題は,ネットの書き手の多くがネットを二次媒体とみなしていることか。
例えば最近よくあるブログ等の書籍化であったり,動画共有サービスからテレビ出演といった,「ネットで目立つ人が旧来のマスメディアに活動の場を移していく」現象。つまり,ネットは「登竜門」であって「本場」ではないとみなされてしまっている。書籍を出すにしても労力は決して小さくないわけで,その労力を例えばブログ記事を新しく書くことではなく「本を出した」という実績作りに振り向けてしまうというのは,やはりそういうことなんだろう。本を出してから力尽きたようにパッとしなくなる人が多いのも悲しい。
私は,紙でも放送でも従来のネットでも表現できないものを表現するために自ら技術開発を行なってきた人間なので,月庭は最高のメディアだと思えているし,自分の著作物はすべて希哲館・希哲社にのみ預けるつもりだが,多くの人は既存のネット サービスやシステムにそのような感情を抱いていない。
せっかく個人でもメディアを手にできる時代になったというのに,「独立自尊」には程遠い現実がある。
「忙しくて書けない」ネット メディアは未熟なのだと思う。残念なことに,多くの人は忙しくなるとネットで情報発信をしなくなる。
「忙しいから書ける」ような仕組みを作らなければ,第一線で課題に取り組んでいる人はまともに発信できず,結局は二流・三流の知見しか流通しない。ネット メディアが二次媒体・三次媒体から脱して,一次(本命)媒体になるには,まずここを変革する必要がある。
テレビというのは,特に民放の場合,大衆が望んでいるものを代表して大衆に届けてきたメディアだが,ネットでそれがどう変わったのだろうか。
少数のチャンネルによって表現される大衆性と,無数のチャンネルによって表現される大衆性というのは,性質的にはさほど変わらないのではないかという気がする。
ネットでも,大勢の意見は少数の意見を押し流すし,大勢に支持される意見は目立つ仕組みになっている。ソーシャル メディアは好例で,誰にでも発信の機会を与えながら,より多くの支持を集めることに誘導している。だから結果として意外に多様性が生まれない。多くの人が自分の意思で,似たような行動をしている。
これは,もしかすると民主主義の歴史に似ているのかもしれない。例えば,日本の自由民権運動やイスラーム民主主義は,「多数者の声」を多様性のためではなく愛国・愛教という一体性の回復,そしてその正当化に使おうとした。もっと有名なところでは,ナチス・ドイツが大衆の支持から生まれた事実が想起されるだろう。
ネットも,テレビを敵視しているうちはまだ健全なのかもしれない。テレビも「悪役」として叩かれているうちはまだ健全なのかもしれない。ネットがこのままの路線で,敵対するものが無くなるのだとしたら,それは「多数者の声」が絶対的な暴力に変わるときなのかもしれない。