東浩紀さんの Twitter への問題意識には共感出来るのだが,「今更?」というのも大きい。私は7年前には SNS から離脱して自ら KNS(knowledge networking service)を開発し始めたので。
8月1日から愛知県で開催されている芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」内の一企画「表現の不自由展・その後」が物議を醸している。
同企画の趣旨は,今の日本では表現の自由が脅かされている,という意識のもと,過去に公共空間から排除された展示物を再展示し,表現の自由について改めて考えよう,というものだ。
従軍慰安婦問題で韓国側の運動を象徴する「平和の少女像」,昭和天皇の写真を燃やす映像などを展示したことで抗議や脅迫が相次ぎ,同企画は中止を余儀なくされた。直接的な中止理由は,「ガソリンを持って行く」などの悪質な脅迫があったことだという。
この企画自体は,大規模なあいちトリエンナーレ2019の一角で行われたものに過ぎず,芸術監督の津田大介氏によれば予算は420万円ほどで,全額寄付で賄うとのことだが,「10億円以上もの税金で反日活動が行われている」という伝聞で誤解が広まった感も否めない。こんなひどい展示がある,と無関係な写真を紛れ込ませている者も散見された。
私も昭和天皇に敬意を抱いているので,この展示内容はあまり好きになれないが,批判する側も理性を欠いたのは明らかだ。表現の自由ということに関して言えば,残念ながら,この国の未成熟ぶりが露呈してしまった,と言うしかない。
もともと私はこの芸術祭に関わっている津田大介さんや東浩紀さんに対してはどちらかといえば批判的な方だったのだが,なにぶん「逆日和見主義者」とでもいうべき性分で,石を投げるよりは投げられる側に立ちたくなってしまう。というわけで,今は少し彼らに同情しているが,基本的に私は「喧嘩両成敗」につとめたい立場だ。
芸術とはそもそも,「驚き」を求めて接するものだ。心地良いだけのものを提供するのは商業であって,芸術ではない。このことは,芸術で政治批判をしようとする者,芸術による政治批判を批判する者,どちらにとっても考えなければならない問題だ。
以前似たようなことを「笑いと反権力」という文章の中で書いたことがある。要約すれば,笑いは突き詰めれば「裸の王様」を炙り出すのだから,政治批判を目的化して笑えない芸をするのは本末転倒で,反骨精神のある芸人はそれを原動力として芸を極めることに専念すべし,ということだ。
これは多少言葉を変えればそのまま,「政治批判のための芸術」にも言えることだ。なぜ政治に不満を持つ者が芸術の力を借りようとするのかと言えば,露骨な言葉では伝えられないものを,より多くの人に,より深く伝えるためだろう。ところが,現実には特定の層に向けた下手な演説を「芸術」の形式を借りてやっているに過ぎないことが多い。だから元々の支持層にしか伝わらないし,壁を壊すことが出来ない。
また最も有名な例を挙げるが,ピカソの『ゲルニカ』がなぜ反戦の象徴たりえたのかを考えてほしい。そこに露骨なものは何もない。一見,子供の下手な絵のようで,何が描かれているのかすら分からない。この作者は何を表現しようとしているのだろう,と考えて見ているうちに,自分の中にある生々しいイメージが引き出されていく。この絵はすぐに評価されることはなかったが,単純に切り捨てられることもなく,時間をかけて多くの人の心に浸透した。これはただの写真では出来ないことだ。
芸術は突き詰めれば,人間の新しい世界観を拓いてくれるものだ。だから最初から良い芸術,悪い芸術,と分類することも出来ない。今回の騒動で,「こんなものは芸術とは言えない」という批判の声も多く聞かれたが,気に入らないから芸術ではない,というのもまた芸術の受け手の考え方ではない。
公共団体が公共施設で行っている催しなのだから「無難ではない表現」をするな,というのは一見もっともなようだが,それなら芸術を支援する,などと最初から言わなければいいだけの話だ。繰り返すが,芸術は誰かにとって都合の良いこと,心地良いことを表現するだけのものではない。芸術を育てるということは,それに手を噛まれるかもしれない,という覚悟があってはじめて出来ることだ。
ナチスのように国家が芸術を利用するのではなく,国家が芸術を育てることに意味があるとすれば,政治家も含めた国民全てが,その芸術が与えてくれる「驚き」から新しいことを学び,自省しながら社会を作り上げていこう,ということに他ならないのだ。