宇田川の用語。
私の人生観と希哲館事業を貫く「凡人思想」については時々断片的に言及してきたが,そろそろしっかり書いておきたい。
私の凡人思想は,ニーチェの超人思想を“克服”するように形成された。
19世紀後半に活動し現代思想に大きな影響を与えた哲学者フリードリヒ・ニーチェが言う「超人」とは,「孤独や虚無をも楽しめる創造力を持った人間」のことだ。
私が言う「凡人」とは,「自らの創造力によって“新しい普通の人間”であり続ける人間」のことだ。これを私は「まだ見ぬ凡人」などとも呼んできた。この凡人は,超人を越えたところにいる。“新しい普通の人間”になるということは,万人のための道を創るということでもある。
17歳で輪郭法の閃きを得た私は,この発明が“知の不可能性”を前提としてきた現代思想を終わらせるものであることにも気付いた。知能増幅によって“知の可能性”が異次元に広がり,知識産業の隆盛と結び付いて世界のあり方を変えうる。この可能性が「新しい物語」の原点だった。
それは同時に,気の遠くなるような,超人を越えた凡人への旅を予感させる出来事でもあった。
凡人思想について哲学的なことをあれこれ語り出すと一日一文にはそぐわない内容になりそうなので,具体的に考えてみよう。ちょうど良い例がここにある。他でもない,デライトだ。
デライトは,輪郭法に基いた世界初の知能増幅メモサービスだ。私は,これを KNS(knowledge networking service)として SNS と対峙している。SNS はいわば人間社会の縮図だ。各国首脳や宗教指導者,各界の権威・著名人を含めた数十億人ともいう人々がひしめき合う世界だ。それでも,たった一人で始めた KNS には,SNS に勝る価値があると私は思っている。
実際の所,私は希哲館事業を始める時に,「全ての神と自分以外の全人類を敵に回してもこの事業に尽くせるか」と自問自答した。その決意が出来たから今こうしている。これは超人以外の何者でもない,ニーチェもびっくりの精神性だ。
しかし,この程度のことなら私にとって難しいことではなかった。「三つ子の魂百まで」というのは本当で,私のこういう性格は幼い頃からほとんど変わっていない。普通ならどこかで破滅していると思うが,環境のおかげで生きてこれてしまった「超人ネイティブ」なのだ。
本当に難しいのはここからだ。このデライトを多くの人に使ってもらうためには,単なる“超人”でいてはいけない。自分自身が,万人に共鳴してもらえる模体とならなければ,新しい技術に基く新しい人間と新しい社会を創ることなど出来ない。これ以上に人間としての器量を試されることなどなかった。
「新しい凡人」になること。これこそが,17歳の私を絶望させた重圧であり,超人が霞んで見えるほどの価値だった。
たまに,デライトは思想臭くてとっつきにくいなどと言われることがある。
ただ,人類知のあり方を変えようという技術が新しい思想を伴なわないわけもなく,全て必然であり自然なことなのだろうと思う。
もともと希哲館事業は「テクノロジーとフィロソフィーの結合」を掲げている。デライトの成功は,技術史のみならず,思想史にとっても大きな画期となるだろう。
整理が付かないうちに夜遅くなってしまったため,この日考えていたことを翌日,翌々日に整理して書いている。
昼頃,何気ないことから鎌倉入りの目標を思い出し,持ち辺がまた一段と高まった。鎌倉入りに関しては5月26日の日記でも触れているが,この頃はまだ新黄金状態どころか今後の見通しすら立っていなかったので,全く違う新鮮な感覚だった。
夕方頃になり,極めて興味深い心境の変化を体験した。新黄金状態になってから失っている気がしていた人間らしい感情が戻ってきたのだ。
実は,新黄金状態になってからというもの,感情が冷たく,硬く,乾いたような,無機質な感じになっていることには薄々気付いていた。この前日の日記にも,非常に苛立ちやすくなっていることを記しているが,感情が快か不快かに単純化されているような気がしていた。
新黄金状態,もとい第二次黄金状態というのは,規則正しい生活と健康の上に頭脳の活性化,高い身体感度,高揚感・多幸感などが持続するという状態であり,それは偽りではなかった。確かに,毎日が自然に笑い出したり踊り出したりするほど楽しく,活力に溢れ,仕事も捗る。一見,理想的な状態だ。
それだけ素晴しい状態であれば,仏のように穏やかに,寛容に,慈悲深くなりそうなものだが,不思議と些細なことで苛立つようになり,他人には厳しく冷たくなっていた。まるでサイボーグにでもなったかのように,他者への共感や思いやりを急速に失っていた。
思えば,この新黄金状態における「楽しさ」も,どこか情緒に欠けていた。ただ身体が物理的な理想状態にあるだけで,それを維持するために違和感・不快感を反射的に排除しようとしていたのが例の「苛立ち」だったのかもしれない。最近,痒みが気になることが多く,肌の乾燥に注意していたが,心にも似たような問題があるのではないかという気がした。躁状態に似た傾向があることにも気付いていた。
この心境に変調が見られたのは,この日の夕方頃だった。午後になって熊本の豪雨による被害が報道されだしていた。この時私は,凶事があるたびに憂鬱な気分になっていた過去の経験から,少し災害関連の情報から距離を取ろうとしていた。なにせ,ついこのあいだ金魚が死んで落ち込んだくらいなので,とにかく折角の好調が崩れることを恐れた。ところが,不意に,老人ホームで14人が心肺停止という情報が目に入ってしまった時,少し気分に重石が乗ったような感覚があった。
この少し前,私は父に姪の動画を送っていた。姉が見せていなければ,父が動く孫を見るのは初めてだろう。朝方,飼い犬の花がひどく出血して心配になることもあった。父も花も老人と老犬なので,この時は何かと感傷的になっていたのだと思う。
このあたりから,心に人間らしい潤いと柔らかさ,温かさが戻ってきたように感じた。気持ちも穏やかになり,これまでとは違う,慈愛と熱情が溢れるような快感で満たされるようになった。これまで「新黄金状態」と呼んでいた時の精神状態とは明らかに様子が違い,「第三次黄金状態」という言葉すら脳裏をよぎった。
第二次黄金状態を「真黄金状態」ではなく「新黄金状態」という表現に留めたのは,これで究極なのか,まだ確信が持てなかったからだ。とにかく状態を安定させるために抑制が必要であり,それが人間らしさの排除に繋がっていたのかもしれない。そういう意味では,この変調した状態が第三次黄金状態と呼べるほど安定するかも分からない。
しかし,第二次黄金状態が人間らしさを失うものであれば,私が希哲館事業で目指すことが実現出来ないことも確かだった。超人的な「鉄の心臓」でどれだけ強力に事業を推し進めても,最後に凡人になれなければ私にとっては無意味だ。
第二次黄金状態を得てから,私はこれが,あの閃きの残光であるように何となく感じていたが,この日,確信に変わった。
17歳での閃きから間もなく,私はこの日のこれまでのように世界から遠退いていった。それから長い葛藤期を経て人間らしさを取り戻し,希哲館事業を始める。ちょうどさっき鎌倉入りについて考えたばかりだったこともあり,駆け出しの頃の自分を再体験しているようだった。
とにかく,この体験を可能な限り克明に記録しておきたかったため,この日記は例外的に翌々日までじっくり時間をかけて書いた。前日の日記に書いた「もっと穏やかに過ごせるようにしたい」という望みが次の日には叶ったのだから,それだけの価値はあるだろう。
安倍政権への審判とも言える第25回参議院議員通常選挙を控え,世間の議論も沸騰している。ちょうどいい機会なので,元消極的支持者として,私の個人的な安倍晋三氏に対する見方をここにまとめておきたい。
私の安倍晋三氏に対する印象は,一貫して,一言でいえば「比類なき凡人」だ。森喜朗氏や麻生太郎氏のようなアクの強さもなく,鳩山由紀夫氏のように浮世離れした感じでもなく,小泉純一郎氏のようなカリスマ的な指導者でもない。特に知的な印象も無いし,特別な才能があるという話も聞いたことがない。かといって上皇陛下のような人格者にも見えない。
まさに,政権支持者がよく自称する「普通の人」だ。肩書きを知らなければ,誰も特別な人だとは思わないだろう。しかし,全くの凡人では首相として選ばれようがない。祖父と大叔父が首相だった,という圧倒的な政治的背景を持った凡人である,というところに安倍氏の個性がある。これこそ安倍氏が支持されてきた理由であり,これからの安倍政権の危うさなのだ,と私は思っている。
一年前後で首相が交代する政治的混乱が続き,経済的にも冷え切っていた頃,第二次安倍内閣の誕生は必然的なものだったと私は考えている。当時,多くの日本国民が求めていたものは何より安定だった。安倍氏の無難そうな人物像はそこに上手くはまっていたし,消極的支持に回った私自身も含めて,国民の選択が間違っていたとは思っていない。
ただ,多数派の支持はあくまでも消極的なものであって,安倍氏に特別な期待が抱かれていたわけではない。今でも一番多いのは,安倍政権を手放しで賞賛は出来ないが,かといって他の政治家では安心出来ない,という声だ。
安倍氏はあくまでも凡人として要請され,凡人として振る舞うことを求められている。ここはご本人にも,自民党にも,一部の支持者にも間違えてほしくないところだ。
こんなことをよく思うのは,最近の熱心な政権支持者と不支持者がやる論争への違和感からだろう。ある人は安倍氏を理想的な指導者のように賞賛し,ある人はヒトラーのような凶悪な独裁者だと言う。物事が単純化・過激化されやすい SNS のせいでもあるだろうが,どちらも冷静さを欠いているせいで,不支持者には安倍政権の「現実的な長所」が伝わっていないし,支持者には安倍政権の「現実的な短所」が伝わっていない。
安倍氏は卓越した指導者では明らかにないし,ヒトラーのような野心的な独裁者でも明らかにない。しかし,安倍政権が独裁化していく過程は想像に難くない。それは安倍氏が内面的にはごく普通の人,凡人だからだ。
この約7年間,安倍氏の言動を見てきて一つ確信しているのは,氏は環境によりかかって生きてきた,ということだ。自分の芯を持って生きている人にある,逆境に立ち向かう強さや,甘やかされても自分で自分を律するような強さは感じられない。環境が許さなければ萎縮するし,許せば許すだけ尊大になる,私にはそういう人物に見える。もちろん絶対的に悪い性格などないし,それも状況によっては優しさや柔軟さといった長所になることもあるだろう。
しかし,例えば,上皇陛下を思い浮かべてみてほしい。自分の悪口を大袈裟に言われても「自分にも非があったのかもしれない」と言い,他人の悪口を言う自分の仲間は「品が無い」と嗜める,私はそういう印象を陛下に抱いている。それは陛下が比類なき人格者だからだ。
安倍氏が現実にやっていることは違う。少しでも批判されれば顔を赤くして怒り,自分の仲間が政敵を攻撃していれば,後ろでニヤニヤ笑っている。これは安倍氏が特別悪い人だからではない。普通の人なんてそんなものなのだ。こういう普通の人がなまじ神格化されて,周囲が担ぎ上げたらどうだろう。それを抑制する強さが氏にあるだろうか。
漫画『ドラえもん』に,「どくさいスイッチ」という有名な話がある。何の取り柄もない,いじめられっこの少年・のび太が,嫌いな人間をこの世から消してしまえる道具を手に入れてやりたい放題するが,なんだかんだあって最終的には反省するという話だ。
普通の人の弱さと憎めなさの象徴として愛されてきたのび太のように,神格化するでもなく悪魔化するでもなく,安倍さんを普通の人として見て,その弱さがもたらす危険性を現実的に考える時期に来ているのではないだろうか。