この頃,透明性についてよく考える。直接意識してきたわけではないが,結果的に私自身も希哲館事業も限りなく透明化しつつある。これも可知性ということか。
今日は開発も快調で,自我アイコン設定機能実装の区切り付けを終えた。本番環境でも手定めに自分とデライト公式の独自アイコンを設定してみた。それだけのことなのだが,妙に胸が熱くなり,感無量だった。
画竜点睛というべきか魂が入ったというべきか,小さなことのようで想像していたよりずっとデライトが生き生きとして見える。
竜胆蛍がいかに私と希哲館の精神の象徴といっても,やはりどこか覆面をしているような感覚があった。
本当に鏡のようになったデライトに映る自分を見ていると,ここまでのわがままを許してくれた周囲の愛情と幸運の多大なことに感謝の念を抱かざるをえない。
最近,自分の境遇について考えさせられるような,ちょっとしたことが立て続けに起こっているせいで余計感傷的になっているのかもしれない。今こうしていられるのも,環境と偶然のおかげだったんだな,と改めて実感させられることが多い。
もうデライトの成功なんか無くても,『パーフェクト・ワールド』のごとく明日のたれ死んでも贅沢なくらいじゃないかと思うくらい既に幸福な気がするが,これはやはり克服すべき自己中心性なのだろう。
閃き以来のこの自己中心性こそデライトをここまでの形にした創造性の核だった。しかし,それだけでは「奉仕」としてのサービスは成立しない。この喜び(delight)を広く共有出来るものにしなければならない。そのためには,お題目ではなく心から思いやりが生じなければならない。
別に今初めて思ったことではないが,一つ峠を越えた後で,自然にこういう感情が湧き出てくるということがデライトの成功にとっては希望だ。