非常に収穫の多い気分転換として輪郭整備に時間を割くようになったが,やっているうちに,むしろこれこそ今やるべきことなのではないかという気がしてきた。
もともと輪郭量に対して輪括量・描写量が少な過ぎるという問題があったが,優先順位の問題でなかなか本格的な輪郭整備は進まなかった。第二次快調期を経て描出効率も発信能力も飛躍的に向上し,十分な時間対効果が期待出来るようになっている。
もう一つ,他用者への波及効果が意外と大きい感触がある。やはり,私自身が活発に描出しているかどうかで他用者の賑わいも違う気がする。この用者の少なさで一番の重用者なので,当然といえば当然だ。
開発に没頭していた期間,大きな収穫があっても用者の反応に乏しいということがよくあり,違和感を覚えていた。一つの理由として,そういう時期は待欄が進捗記録などの事務的な記録で埋まりがちで,献典として面白くないということがあったのかもしれない。
先日の日記では,Twitter の騒動を利用することに関して消極的な見方をしていたが,よく考えると,そもそも「Twitter ではない Twitter のようなもの」が失敗してきた理由は,Twitter との差別化が出来ていなかったからだ。この場合,KNS としてのデライトの革新性は,障害ではなく近道として機能するかもしれない。積極的に利用することを考えるべきか。
面白いのは,デライトのキャズムについて最近考えていたこととの対比だ。個人知識管理通類の用者層は意外と保守的であり,大きな変化を望んでいない人が多い。それはメモと自己保存欲求の相性の良さから来ているのではないか,と考えていた。先述の用者の反応に乏しい問題にも通じるが,新機能を追加しても意外と喜んでもらえない。こうした層向けには,印迫よりも安心感を与える施策が必要なのだろう。
この二方面への売り込み方を上手く使い分け,組み合わせることで新しい道が開けそうだ。
デライト紹介文は、愛着が生じない程簡単に書けた。書いたというより書かさったという感触がある。この現象を再現可能とするために、何が起こったのかを記録しておく。
どんなことを書けばいいのか分からなかった私は、先行事例に答えを求め、YoutubeでWorkflowyが出している動画を見た。機能の紹介が主で、それは私の求める形ではなかった。why → how → whatという形にしたいという思いがあった。まず最初に、「なぜデライトか?」に答える必要があった。
「なぜデライトか?」を換言すると、「なぜメモなのか?」という問いに還元された。私の中にこの問いに対する答えを持っていないと感じられたために、題目からの発想を放棄し、素材集めの旅に出た。私の中に答えを求めるのではなく、デライトの中に答えを求めた。その際、『なぜメモなのか』という輪郭をクリップボードに入れたまま、デライト、メモ、メモ、『TAKE NOTES!――メモで、あなただけのアウトプットが自然にできるようになる』を見て回った。使えそうな素材が見つかれば、『なぜメモなのか』に引き入れて行った。
『メモはなぜ進歩しないのか』の中の「メモから世界が変わる」の一文にピンときた。この一文を少し変え、「メモが世界を変える」を中心に据えた。そこからは逆算で文章を書くことができた。