共有から共通へ,集合知から収斂知へ

描主宇田川浩行#F85E
上描き希哲9年(2015年)
01月18日 00:53
下描き希哲9年(2015年)
01月18日 00:11
利承
ライセンス
希哲館普通利承(KULクール

インターネットを中心とした「共有シェア」や,いわゆる「集合知」といった概念の流行は過渡的なものであり,いずれ乗り超えて行く必要があるというのが私の持論だ。

そして実際に「共通ミート」と「収斂知しゅうれんち」という用語を提唱し,この考え方に基いた技術開発を主導してきた。今となっては,この道を選んで本当に良かったと思っている。

共有=集合知の限界は明らかだ。「創造」に向いていない,の一言に尽きる。公知の事実を集めた百科事典のようなものを作るのには向いているが,そのために独創性は排除される。これは知的財産の観点からみて重大な欠陥となる。つまり,独自性のある内容がないため,長期的に媒体価値を保てないということだ。

一方の共通=収斂知は,あくまでも個人が自由に知識を蓄積・発展させ,その知識が互いに摂取・刺激しあうようにする。そして個の知識を合成してより客観性の高い知識を生み出す。この仕組みを持つ媒体は,共有=集合知に蓄積された「客観的な情報」を含めたあらゆる情報を「個人的な知識」に変換し,さらに「共通の知識」を合成的に提供することが出来る。つまり,独自性と客観性を両立させることが出来る。

さらに加えて,公共への奉仕ではなく,自己のよりよい知的成長という強力な利己的引煽インセンティブを与える。ボランティアに頼る百科事典の場合,安定して執筆者を集めることは困難で,内容も無責任になりがちだ。共通=収斂知の場合,個人が隠れないため内容の質は当人の責任において保たれる。こうした原理上,共有=集合知は共通=収斂知に吸収されざるを得ないわけだ。

共有=集合知は,この2010年代には役割を終えるだろう。こんなことを書けるのも,月庭が共通=収斂知の鳴体メディアだからだ。ここにはここでしか手に入らない情報が無尽蔵にある。これが「無尽想」だ。

出力論組プログラム虎哲*イチ 1.1号
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