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{訳語と思考 K#F85E/E3DE}

最近,良い訳語の造り方のコツを掴んだような気がしている。どんどん翻訳に挑戦できて楽しい反面,ときどき悲しくなることもある。それというのも,良い訳語を見つければ見つけるほど,日本人がいかに自分たちで使っている言葉に無頓着だったか,ということも痛感するからだ。

翻訳,特に概念の翻訳というのは,その概念を我々の言語の中に消化し,血肉にしていく作業だ。日本語ならば,日本語話者である我々が,外来の概念を噛みくだいて自分のものにする,ということを意味している。実際,訳語を考えるには,その概念についてよく考えなければならない。日本人は,どうもこれを怠り過ぎたようだ。

ついこの前,「デザイン」を「徹案(てつあん)と訳した。解説は後日改めて書くが,これを考えている間にも,「デザインとは何か?」といった文章をいくつか読んだ。それがことごとく,まるで説明になっていない。真っ先に出てくる Wikipedia の記事なんかは悪い見本といっていい。

これだけ「デザイン」という言葉が日本社会にあふれていて,「デザイナー」なんて肩書きをありがたがったりするくせに,それが一体何なのか,まともに説明できる人間があまりにもいない。つまり,誰もまともに考えてこなかったということだ。もちろん,これは「デザイン」に限ったことではない。日本人はカタカナ語のほとんどを何の検証もなく,ただなんとなく使っている。

そう思ってしまうと,これから消化していくべきカタカナ語の多さに気が遠くなる。日本人が先送りにしてきた宿題の山だ。