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}{容易に}(42)そろそろ希哲館翻訳事業についても何か書いておこうと思いデライトをくぐっていると,6年以上前に書いた懐しい文章(「翻訳とは何か」)を見つけた。当時の私の「第二次大翻訳時代」への意気込みが伝わってくる。
当時はまだそれほど蓄積が無かった希哲館訳語も今や「日本語史上最大の翻訳語体系」と称するまでになり,自ら開発するデライトも翻訳語研究にはこれ以上ない通類になっている。ここで改めて,第二次大翻訳時代への思いを記しておきたい。
日本にも「大翻訳時代」と呼ぶべき時代があった。言うまでもなく,膨大な外来語が翻訳された江戸時代後期から明治時代にかけてのことだ。この時代に生まれた翻訳語は現代日本語に欠かせないものになっている。
そんな日本語も,どこで何を間違えたのか,カタカナ外来語で溢れかえるようになってしまった。時代の流れが速いから翻訳語なんか造っても意味が無い,とやってもみずに言う者が多い風潮に逆らって,私は翻訳活動を続けてきた。
そうしていると,「何で翻訳語なんか造ってるの?」と言われたりする。今我々が当たり前のように使っている日本語にどれだけの翻訳語が含まれているか,知らないわけではないだろう。ではカタカナ語に満足しているのかというと,「カタカナ語の氾濫」はたびたび社会問題のように語られる。それでも,「なら翻訳してやろう」という運動は無いに等しい。
昔から,独自に翻訳語を造ってみようという人はいて,私もいくつか例を知っているが,その全てが世間には全く知られていない。そういう運動を誰かが始めてみても,一向に火が付かないのだ。そして自然消滅のように消えていく。これは面白いといえば面白い現象だ。
私もその運動を始めた一人だが,翻訳語についての話というのは本当にウケが悪い。ブログ記事のようなものを書いても握接が集まることは無いし,Twitter のような所でつぶやいてみても反応はほぼ無い。まさに「しーん」という感じだ。
ただ,私はそれもこの仕事のやりがいだと思っている。いかに現代日本人にとって外来語翻訳というのが難しいことか,それを思い知らされるほど,その難しいことをやってこれたことに対する自負と誇りも大きくなる。
これからも希哲館は,この日本で知識産業革命を実現し,日本語を英語に代わる「世界の言語」とすべく翻訳語整備を進めていく。そして,世界史を変えた「知恵の館」(バイト・アル=ヒクマ)にも劣らない翻訳事業にしたいと思っている。
先日,デライトでも RSS 対応をした。以下のように,任意の輪郭一覧を RSS で「待っ読」(まっとく)ことが出来る。
この「待っ読」,フィードにおける〈subscribe〉あるいは〈subscription〉の翻訳語として昔考案したものだ。
今のようにデルン(デライト)で何でもかんでも記録するようになる前だったので,正確な考案時期は忘れてしまったが,デルンが実用化した希哲6(2012)年より前だったことは間違いない。ただ,しばらくは案の一つだったようで,希哲8(2014)年に改めて採用することを決めている(〈subscribe〉を「待っ読」と訳す)。
今となっては希哲館訳語の蓄積も膨大なものとなったが,そのほとんどはデルン実用化後に出来たものだ。「待っ読」は独自性を持つ最古の希哲館訳語と言える。「希哲館訳語の原点」と言っても過言ではない。
この「待っ読」,すでにお気付きかもしれないが「積ん読」にちなんだものだ。
そもそも〈subscribe〉の翻訳語を考えるきっかけは,phpBB3 という掲示板スクリプトの日本語パックを作りたいと思ったことだった。希哲館事業発足間もない希哲2(2008)年のことだ。
phpBB3 は,希哲館で情報交換のために使える掲示板として当時は有力な選択肢だった。かねてより必要を感じていた翻訳語整備も兼ねていた。今はデライトがあるが,このデライトを実現するためにデルンの実用化を目指すことになり,この望事自体は立ち消えとなった。
その中にこの用語があったが,直訳の「購読」では明らかに不自然だった。散々考えた挙句,投げ遣り気味に「積ん読」と訳すことを考えた(RSS フィード等の “Subscribe” は「積ん読 (つんどく)」か)。これは流石に無理があったものの,しばらくして「待っ読」の元になったわけだ。
それから十数年経ち,〈subscription〉という概念は,サービスなどの定額制を意味する「サブスク」として広く認知されるようになった。
しかし,フィード等の〈subscribe〉をどう翻訳するか,という問題は当時から未解決のままだ。
デライトでは,利用者が出来るだけ自然に使えるように,希哲館訳語のほとんどをあえて採用していない。見慣れない翻訳語に気を取られて欲しくないので,多少のカタカナ語には目を瞑っている。
それにしても,「サブスクライブ」も「購読」も自然で分かりやすいとは言えない。なら「待っ読」でいいんじゃないか,と採用することになった。
最も思い出深い翻訳語がここで復活してくれたことに,運命的なものを感じざるをえない。