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{「誰が言ったか」と「何を言ったか」 K#F85E/D66B}

誰が言ったか」と「何を言ったか」というのは二項対立的に語られることが多い。結論から言ってしまえば,重要なのは「誰が何を言ったか」でしかなく,それを分解してしまっていることが愚かだ。

この対立は,恐らく権威主義ないし偏見とそれに対する反発,というところから来ているのだろう。多くの人が,発言を発言者の人格に結びつけて捉えてしまうことへの反発として「重要なのは何を言ったかだ」という考え方が出てくる。どちらも半分正しくて,半分間違っている。

人物や主観性というのは発言の意味を変える「文脈」だ。それを無視して,発言のただの文字列のように外形的なものとしてだけ評価することは出来ない。例えば「好き」「嫌い」のような言葉を誰が言っても同じ価値だと思える人はいないだろう。

一方で,言葉それ自体を良い意味で批判的に検討することもなく,発言者の権威や印象に雷同することが愚かであるのは言うまでもないし,それを肯定したり諦観したりすることは思考停止以外のなにものでもない。

発言は人格の一部なので,発言から人物を評価することも,人物を考慮して発言を評価することもあり得る。ただ確かなのは,いかなる発言に対しても批判的姿勢を欠いてはいけない,ということだけだ。

私に関していえば,「宇田川浩行」という実名でずっと発言し続けているのは,自分の行動や発言を部分的にではなく全体として記録したい,知ってもらいたいからだ。それはあくまでも個人的な欲求であって,誰もが実名であるべきという考え方ではないので匿名を否定しているわけでもない。また,私は愚かな発言を見つけたらこの実名で誰彼かまわず容赦なく批判しているので,その意味では匿名同然に自由でもある。要は,「誰が言ったか」と「何を言ったか」の対立など最初から問題ではないということだ。