デライト2周年のことばかり考えていたが,今年でデルン10周年になることを思い出した。
デルンにはデライトと異なり離立というものがなく,希哲6年に少しずつ動き出したものなので,明確に始まったと言える日時があるわけではなかった。
最初の描出は希哲6年2月10日(C++ウェブ開発向けライブラリ)だが,これは確か手定め程度のもので,2月中の新規描出は6輪しかない。それからしばらくのあいだ描出が無くなり,実用化と言える程度に描出が増えるのは正式に K#F85E を登録した4月30日からだ。細かいことはさておき一番早くみれば2月10日でデルン10周年,その3日後にデライト2周年ということになるか。
もう10年かと思いかけたが,これまでに得たものの多大さを思えば,まだ10年,たった10年だ。その内のたった2年でここまで来たデライトの進歩の速さにも驚かされる。
希哲館事業を一つの新しい「文明」として私が認識し始めたのはいつだったか。デルンの実用化を果す希哲6(2012)年頃には「内なる文明」とか「腫物文明」とか言っていた記憶があるので,デルンという“文明の利器”の存在は大きかったのだろう。
新現代思想を構築し,希哲紀元を作り,大和民族から「希哲民族」をスピンオフさせたりまでした。実際,ここまで独自性を高めると「希哲文明」としか言いようがない。
ここまでのことをして自作文明や自作民族を持っている人間は世界中見渡しても他にはいないだろう。そんな希哲館事業でなければ,「イデオロギー定食」という発想も無かったはずだ。
(途中で何が書きたかったのか忘れたのでこの文章は『道草録』に入れないが,消すのも惜しいので残しておく)
私は12歳頃から変わった道を歩むことになったので,これも岐路といえばそうかもしれない。ただ,意識的にこの道を選んだわけではないし,その後のことも全く想像出来なかった。なんとなく迷い込んだという感じだ。
分かれ道を前に立ち尽くすような人生の岐路という意味では,やはり17歳の頃を思い出す。「閃き」で輪郭法と希哲館事業の青写真が出来た頃だ。
希哲館事業に進むべきか,その気持ちを押し殺して普通の人生に進むべきか。どちらを選んでも困難は目に見えていた。結局,決心して希哲館事業発足にいたるまで4年ほどかかった。希哲元(2007)年のことだ。
次の岐路は,希哲6(2012)年,デルンの実用化直前のことだった。
当時の私は,何かと縁に恵まれ,個人事業主として好条件で司組開発の仕事をもらったりしていた。このまま無難に仕事を続けるか,思い切ってデルン開発に注力するか,という岐路だ。
この時は,あまり迷いもなくデルン開発を取った。希哲館事業を始めた時点で,私の目標は,とりあえず世界史上最大の企業を創り知識産業革命を実現することだった。それすら最終目標ではない。このまま無難にやっていれば,そこそこの大企業を創るのが関の山だろうと思った。
デルンの実用化成功とともにそれまでの仕事は全て止め,デルンを育てることに注力するようになった。それから更に8年ほど経った希哲14(2020)年,デルンはデライトとして世に出る。
そして今年,開発が上手く行き,デライトの成功も時間の問題という所まで来て,また一つの岐路があった。じっくり時間をかけてデライトを成功に導くか,多少リスクが増してもデライトの成功を急ぐか,という岐路だ。
もちろん,私はデライトの成功を急ぐことにした。デライトの成功は,希哲館事業の成功の過程に過ぎない。デライトだけが成功しても意味がなかった。これは「デライトはなぜ成功を急ぐのか」でも書いた通りだ。
結局,私は無難な道を選ぶということが出来なかった。希哲館事業の成功への希望が残るかどうか。17歳の頃から,それだけが私にとっての死活問題だった。どんなに安全だろうとその希望がゼロなら私は生きていられないし,どんなに危険だろうとその希望がわずかにでもあれば生きていける。
今のところは環境のおかげで良い暮らしが出来ているし,見通しも良いが,生き方そのものがとんでもない綱渡りには違いない。そう考えてしまうと,具体的な心配もないのに先が思いやられる。
最近,思い出話のような一日一文が続いているので,どの部分についてでもなく,希哲館事業全体についての思い出を書いてみたくなった。漠然とした思い出話を成り行き任せで書いてみよう。
思えば,17歳の時に輪郭法を閃き,もう30代半ばだ。輪郭法の閃きが希哲館事業の原点で,大人と言える年齢が18歳だとすれば,少年時代の最後から今にいたるまで,私はこの事業とともに歩んできたことになる。閃き以前より以後の人生の方が長い。そういう意味では,“人生そのもの”と言っても過言ではない。
もっとも,スポーツのような分野ならともかく,実業や研究のように蓄積が物を言う世界で10年や20年なんて大した歳月ではない。ひよっこに毛が生えたようなものだろう。そう考えると,20年足らずでよくここまで来れたものだ,という気もする。
輪郭法というのはデライトの基礎にもなっている理論で,脳の認知機能を「立体階層構造」として勘報(コンピューティング)で利用出来るように形式化するものだ。
これが情報技術を大きく変えうるものである,とすぐに気付いた。そこまでは良かった。それだけなら,ビル・ゲイツのように大金持ちになって万歳,というだけの話だ。
この理論とその応用技術はそれだけでは終われない,ということに気付くのにも時間はかからなかった。これは人類のあり方を一変させる技術になる……後に「世界初の実用的な知能増幅(IA)技術」という言葉で表現することになるこの技術は,明確な哲学に基く「新近代化事業」の一環として捉える必要がある。希哲館事業構想の始まりだ。
その当時とは比べ物にならない経験・知識・技術・資産を持つ今ですら,この構想の全体について考えると気が遠くなりそうだ。当時の私が背負えるわけもなく,当然ながら精神的な混迷に陥った。
それからなんだかんだあり,希哲6(2012)年にはデルンが出来,希哲館事業構想は成熟し,希哲館訳語のような蓄積も出来,昨年にはデライトも始めることが出来た。そして今,デライトの成功は目の前だ。
家族からデライト用者にいたるまで,多くの人に助けられて今がある。これだけの構想を背負って,晴れ晴れとした顔でのうのうと暮らせているだけで奇跡のようなことだろう。
これからも感謝とともに歩み続けよう。
先日,デライトでも RSS 対応をした。以下のように,任意の輪郭一覧を RSS で「待っ読」(まっとく)ことが出来る。
この「待っ読」,フィードにおける〈subscribe〉あるいは〈subscription〉の翻訳語として昔考案したものだ。
今のようにデルン(デライト)で何でもかんでも記録するようになる前だったので,正確な考案時期は忘れてしまったが,デルンが実用化した希哲6(2012)年より前だったことは間違いない。ただ,しばらくは案の一つだったようで,希哲8(2014)年に改めて採用することを決めている(〈subscribe〉を「待っ読」と訳す)。
今となっては希哲館訳語の蓄積も膨大なものとなったが,そのほとんどはデルン実用化後に出来たものだ。「待っ読」は独自性を持つ最古の希哲館訳語と言える。「希哲館訳語の原点」と言っても過言ではない。
この「待っ読」,すでにお気付きかもしれないが「積ん読」にちなんだものだ。
そもそも〈subscribe〉の翻訳語を考えるきっかけは,phpBB3 という掲示板スクリプトの日本語パックを作りたいと思ったことだった。希哲館事業発足間もない希哲2(2008)年のことだ。
phpBB3 は,希哲館で情報交換のために使える掲示板として当時は有力な選択肢だった。かねてより必要を感じていた翻訳語整備も兼ねていた。今はデライトがあるが,このデライトを実現するためにデルンの実用化を目指すことになり,この望事自体は立ち消えとなった。
その中にこの用語があったが,直訳の「購読」では明らかに不自然だった。散々考えた挙句,投げ遣り気味に「積ん読」と訳すことを考えた(RSS フィード等の “Subscribe” は「積ん読 (つんどく)」か)。これは流石に無理があったものの,しばらくして「待っ読」の元になったわけだ。
それから十数年経ち,〈subscription〉という概念は,サービスなどの定額制を意味する「サブスク」として広く認知されるようになった。
しかし,フィード等の〈subscribe〉をどう翻訳するか,という問題は当時から未解決のままだ。
デライトでは,利用者が出来るだけ自然に使えるように,希哲館訳語のほとんどをあえて採用していない。見慣れない翻訳語に気を取られて欲しくないので,多少のカタカナ語には目を瞑っている。
それにしても,「サブスクライブ」も「購読」も自然で分かりやすいとは言えない。なら「待っ読」でいいんじゃないか,と採用することになった。
最も思い出深い翻訳語がここで復活してくれたことに,運命的なものを感じざるをえない。