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{空想から科学の民主主義へ K#F85E/7A3F-076A}

民主主義は,近代以後の世界を特徴付ける政治思想だが,ここ数百年の間,その実態は神話的空想に包まれてきた。世界中の国々の「民主的決断」が物議を醸している今こそ,我々の民主主義観を更新する時だろう。

民主国家に住み,民主主義に従っているつもりの我々でも,民主政がなぜ「正当」な政体なのか,その基本原理である多数決がなぜ正当と言えるのかを説明するのは難しい。私も政治思想については古今東西色々な話を見聞きしているが,得心が行く説明は知らない。

空想と科学

民主主義を擁護しようとする時,人は必ず夢想的か,あるいは妥協的な態度を取る。例えば「民衆の知恵」を称揚したり,「理想的ではないが一番マシ」などと言ってみたりする。しかし,我々は多数者の判断が必ずしも正しくないことを知っている。それが少数者の判断と比べて優れていると言えるような証拠も持っていない。ただ,それが良いものだと教えられてきたから何となく肯定しているに過ぎない。それでも我々は,民主的とされる世界で,あたかも民主主義を理解しているような顔をして暮らしている。このような態度を私は「空想的民主主義」と呼ぶ。

この不思議な現象を上手く説明するには,民主主義を単なる「政治的現実」と考えてみるのが良い。民主主義は,人類の素晴らしい発明などではない。人類は,「多数者に逆らってはいけない」という単純な現実を発見しただけ,というわけだ。科学者自然法則を作るわけではないのと同じで,我々も様々な政治的実験を繰り返した結果,一種の政治法則に辿りついたに過ぎない。このような考え方を私は「科学的民主主義」と呼ぶ。

物理的な意味で,人間社会における強者は,常に多数者だったと言える。民衆に容認されない王政貴族政は長期的に継続しえない。少数者による統治は,多数者によって容認されてきたものに過ぎない。つまり,政治は常に,潜在的には民主的だったはずだ。このように,多数者が少数者を(少なくとも潜在的に)圧倒している状態を私は「民主原理」と呼び始めている。民主主義というのは,この民主原理を顕在化させた思想であると解釈出来る。

多数決の正当性

多数決の正当性は,その決定の正しさや信頼性とは関係が無い。多数決は,無益な争いを減らすための手段としてのみ正当であると言える。動物でも,無駄な闘いを避けるために身体的特徴を誇示することがある。大方結果が分かっている争いで血を流すのは,どちらにとっても好ましいことではないからだ。

圧倒的な多数者がその気になれば,手段の正規・非正規によらず憲法を覆すことも出来る。つまり,現実として民意はあらゆるを超越している。少数者と多数者の間で意見が対立している時,どちらかが正しいという絶対的な判断を下せるのは,強いているとすれば「」だけであり,人間には判定不能だ。しかし,正義を暴力で争えばどちらが勝つかは目に見えている。ならば最初から勝つ方に従っておいた方が社会的損失を最小限に抑えられる。多数決と民主主義に正当性があるとすれば,この一点に尽きる。

近代化の神話

空想的民主主義とは,つまり近代化における神話の一つだ。ロベスピエールの「最高存在の祭典」や,国家神道を必要とした日本の近代化は分かりやすい例だが,近代化はしばしば「新しい神話」を必要とするものだった。その背景にあった啓蒙思想自体,その理想と裏腹に神話的な内容が多い。

子供が童話から世界について学んでいくように,我々はこうした「物語」から近代的世界を学んできた。そして,その虚構から卒業しなければならない時を迎えている。

もう5年ほど前のことになるが,私はルソー社会契約論に対して,「社会黙認論」を唱えたことがある。当時の記述によれば,「現実には偶発的な利害の一致と妥協・惰性が国家を形成する」という考え方で,その原理を「社会黙認」と呼ぶ。これは少し見直しが必要かもしれないが,大筋は今でも有効だろう。

民主原理が死ぬとき

政治における多数者優位の原理である「民主原理」は,あくまでも個人間に物理的な力の格差がない状況でしか成立しない。現代民主主義の起源である古代アテナイの民主政において参政権と従軍義務が表裏一体であったように,現代民主国家の代表格であるアメリカ武装権が存在するように,民主原理の究極的な根拠は残念ながら暴力にある。この事実は,多少不吉な未来を予感させる。

例えば,人間がまだ主にで戦っていた時代には,重武装の兵士1人に対して屈強な農民3人も反乱すれば支配者にとっては十分な脅威だった。最新の兵器鉄砲だった時代には,多少訓練すれば民衆でもそれなりの兵力になった。しかし,現代では兵器の高度化等に伴い軍人専門化が進んでおり,付け焼刃の反乱軍国軍に対抗出来る余地は年々乏しくなっている。

現代では,軍事経済一極集中格差拡大の傾向にある。極端な話,軍人労働者の多くがロボットに置き換えられて,一握りの支配層がその操作権限を握ってしまえば,大衆は軍事的にも経済的にも支配層に対抗出来なくなる。

これは SF じみた杞憂だと思いたいが,その不安が社会の暴走を未然に防ぐ動機になるのであれば,それも科学的民主主義の意義だろう。いずれにせよ,科学は現実をより明確に認識する考え方に過ぎず,神話のように我々が進むべき道を教えてはくれない。私は,この民主主義の科学を基礎として「希哲民主主義」のあり方を示したい。希哲館はその道標となるだろう。