先日,『「自称芸術家」について考える』という文章を書いた。この中で私は,「芸術家」とは何か,という問題について触れた。これがきっかけで,最近よくこの問題について考えてしまう。
事の発端は,ある女性が,自身の性器を題材に「芸術」と称する活動を行い逮捕されたことだ。各界の著名人がこれについて発言したのだが,残念ながらその多くが軽薄な芸術観を露呈してしまうことになった。はからずも,日本人の芸術観の脆弱さを白日の下に晒した事件といえるかもしれない。要するに,ほとんどの日本人が,しかもそれなりに表現活動を行い知名度の高い人々でさえも,芸術というものを「なんとなく」しか捉えていないことが分かってしまったのだ。
ふと私の脳裏をよぎるのが,「芸術洗浄」(アート・ロンダリング)という手法だ。この言葉自体は私の造語だが,手法はよく知られている。つまり,日本国内で評価されていなかった(自称にせよ他称にせよ)芸術作品を国外で評価させることで,「海外で評価された」という実績を国内に持ち帰り,さも「立派な芸術」であるかのように見せかける手法だ。日本人はこの手にとても弱く,それゆえに表現者側の日本人が使いがちな手でもある。
この芸術洗浄は,その性質上,日本特有の文化に基くもので行われることは多い。近年でいえば,オタク文化が代表だろう。
日本には批評精神がない。批評精神とは,ある価値観に基づいて物事の善し悪しを主体的に判断する精神だ。この価値観というものを持っている日本人がまず少ない。だから何が良いか,何が悪いか,を語れず,何でもいい,で丸く収めようとしてしまう。芸術についてもこの考え方がよく表われている。何でもいい,というのは一見平等なようだが,実は異なる。相対主義というのは,歴史的にも権威主義や商業主義と相性が良いことが立証できる。これは古典的には古代ギリシャのソフィストとソクラテスの議論で確認できるだろう。
批評が機能しないということは,理性ではなく権威と金がものをいうということだ。「なんとなくそう思える」ことを問い直す理性を排除することは,権威と商売人にはとても都合が良い。
多くの日本人にとって,芸術と呼ばれているものは,「売れてるから」「みんなが言ってるから」「偉い人が言ってるから」芸術なのであって,理性に基く確固たる価値観に基いて芸術なのではない。私は件の事件にまつわる様々な人の発言を眺めていてこれを痛感した。