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『WELQ』問題を発端とした,インターネット上の悪質な献典〈コンテンツ〉についての議論が絶えない。テレビなどの古い鳴体〈メディア〉にとってはネットに対する恰好の批判材料にもなっている。これも本件の余波が大きい一因だろう。
先日の「『WELQ』で考える著作権問題」という文章でも書いたように,この問題を著作権問題として捉えることには一定の留意が必要だ。本来,際限の無い問題に一線を引くのが著作権法なので,それをモラルの問題にするとキリが無くなる。
では問題の本質はどこにあるのだろうか。私が思うに,『WELQ』問題とは突き詰めれば日本の IT 企業全般の「志の低さ」問題だ。
日本の IT 企業,特にインターネット企業が権利侵害に無頓着であることの根底には,「そもそも IT 企業とはそんなものだ」という意識がある。実際,Google にせよ Facebook にせよ,世界的成功例とされる企業も創業当初から権利侵害とは隣り合わせだったという事実がある。彼らは,新しい仕組みを生み出すためにしばしば他者の権利を侵害してきた。それもイノベーションのための必要悪だという「物語」を,日本の IT 起業家の多くが信奉しているのだ。
今月7日,『WELQ』を運営している DeNA の会見の中で,経営者側が繰り返す「(スピード感やチャレンジ精神といった)スタートアップの良さを失わないように」という言葉を受けて,記者が「コンプライアンスやモラルは守っていて当然なのではないか」という疑問を呈する一幕があった。これに対し経営者は無難な返答をしていたのだが,私はそこに,建前と現実の差とでもいうべき認識の根深い隔りを感じた。一緒にされたくはないが,大きく括れば同業の者として,彼らが腹の内ではそう簡単に割り切れない感情を抱いていることはよく分かる。
「そうお行儀よくイノベーションが出来るかよ……」と彼らの目が語っているようだった。
なぜアメリカの IT 企業は許されて日本の IT 企業は許されないのか。それがつまり「志の違い」なのだ。少なくとも成功したアメリカの IT 企業は,IT で実現したい世界のために金を稼いでいるが,日本の多くの IT 企業は,金を稼ぐために IT を利用しているに過ぎない。例えば権利侵害を「必要悪」とするためには,結果としてそれを大きく上回る公益を生み出さなければならないが,日本の IT 企業にはそれが出来ていない。実質的に「金を稼ぐための権利侵害」,つまり泥棒同然のことしかしていないのだから,社会的に認められるわけがない。
DeNA に限ったことではないのだが,日本の IT 企業は手っ取り早く金になることを求め過ぎる。DeNA の場合も,利益になりそうな流行り物に飛びついてるだけで事業に信念がまったく感じられない。創りたいもののために困難な収益化を図るという考え方ではなく,簡単に収益化出来そうなものを造るという考え方に陥いっている。自然,金さえ稼げれば成果物の質などどうでもいい,ということになる。
度を越した SEO(検索エンジン最適化)についても,本来は「良い献典のための SEO」が,この手の企業の中で「良い SEO のための(低コストな)献典」に逆転していても不思議なことはない。むしろ,それ以外のどこに拠り所があるのかという感じだ。
こういう状況を投資環境の悪さのせいにする言説がよくあるが,それは恐らく原因と結果の取り違えだ。起業家とはいわば「冒険者」だ。困難や逆境に立ち向かう力が無く,「金をくれれば出来るのに」と言って何もしない者に誰が夢を託せるだろうか。壮大な夢をしっかり描いて,それに向けた徹底的な現実主義者になること。それだけのことが日本人には全く出来ていない。それが国内では大手とされるインターネット企業で示されてしまったことこそ『WELQ』問題の哀しさなのだと思う。
ここ数日,大きく報じられている『WELQ』問題を背景として,「キュレーション サイト」などと呼ばれるものを含む広義の「まとめサイト」のあり方が問われている。
私はもともと脱まとめ論者だ。キュレーションに対しては「ガーデニング」(参考:「キュレーション」と「ガーデニング」の違い),まとめサイトに対しては「もとめサイト」などと,「まとめ」から脱却するための様々な表現・概念を考えてきた。この『月庭』もその思想に基いて開発されている。
3年ほど前に「キュレーション サービスへの印象」という文章も書いている。その中で私は,いわゆるキュレーション サイトの問題として,粗悪な情報でアクセス稼ぎをさせるような設計にしかなっていないことを指摘していた。これはまさに今『WELQ』問題で指摘されていることと同じだ。
私が「ガーデニング」や「もとめ」という概念で言わんとしていることは,「よりよく見せかけるための知」ではなく「よりよく見るための知」を重視しようということだ。これは現代におけるソフィズムとの闘いでもあり,希哲館がその名の通り追究してきた課題でもある。いまさら確信が深まるというほどこの信念が揺らいだことは無いのだが,いよいよ機が熟してきたという感がある。
DeNA が運営する医療系キュレーション サイト『WELQ』(ウェルク)が,記事の粗製濫造によって誤った情報を広めたとして批判を受けている。その記事の執筆過程においても,著作権侵害やそれに近い倫理的問題があったことが問題視されている。本件はあくまでも様々な要素が絡みあった複合的な問題だが,総合的な印象の悪さが個々の問題を分かり辛くしている面があるので,ここでは「著作権問題」に焦点を絞って雑感を記しておく。
個人的に興味深いと感じたのは,DeNA 社内で,他のサイトの記事をリライト(手直し)して掲載するような指導があったのではないか,と取り沙汰されていることだ。このリライトは著作権法に抵触しないように,あるいはそもそも著作物の転用が発覚しないように行なわれるものだが,これが「モラル」の問題として語られている。もちろん,情報媒体としても書き手としても醜悪な行為であり軽蔑せざるを得ないのだが,私はどちらかというと美学の問題だと感じている。
このリライト,「気持ち悪い」とは感じるが,ではなぜそれが悪いことなのかと言われて論理的に説明出来る者はいないだろう。著作権法に抵触しないようにリライトしているのだから,上手くやっている限り少なくとも法律違反ではない。説明が難しいのもそのはずで,著作権というもの自体の根拠はそれほど明確なものではないのだ。芸術論などで,独自性とは何かという議論になると必ず「全ての創作は模倣と編集だ」というような結論に行き着く。得た情報を少し書き換えて自分のものにする,というのは何も特別なことではなくて,我々が様々な形で日常的に行なっていることだ。むしろ情報処理というのはそういうものだとすら言える。そんなわけで,昔から著作権という概念自体を疑問視する人々もいる。
しかし,それで全ての模倣を許してしまえば創作意欲を持つ者が少なくなり,商業が成立せず,文化も発達しない……と多くの人は考えている。そこで,どこかに線を引いて取り締まろうというのが著作権法であり,著作権という概念だ。だから,著作権の問題をモラルの問題に拡大してしまうのは,その目的に逆行していることになる。実際,そこまでモラルを問えば,媒体を問わず怪しい情報などそこらじゅうに転がっている。これ自体は本件特有の問題ではなく,何かの拍子に注目されるか,なんとなく見逃されているかの違いでしかない。
『WELQ』もずさんだったが,それを取り上げるメディアの解説もずさんなものが多い。本件については度々触れていくことになりそうだ。