この前,「私の思想的源泉」なんて文章を書いたが,今回は自分の宗教観についてでも簡単に書いてみようと思う。
しかし,これも考えてみるとそう簡単には結論が出ない。私は一般的な日本人と変わらない宗教的風土の中で育っている。だから,日本人がよくいう意味での「無宗教」といえなくもない。少なくとも,仏教徒ではないし,キリスト教徒でもイスラム教徒でもなく,その他いかなる宗教の信徒でもない。仮にこういう言い方が許されるのであれば,全ての善意ある宗教の信徒である,つまり,全ての宗教は突き詰めれば一致することを信じている,とも言える。
私なりの神・世界についての体系的見解があるという点では多くの日本人と異なるだろうが,かといって,それでいわゆる宗教を始めるつもりもないので,やはり宗教的ではない人間なのかもしれない。しかし,「無宗教」へのこだわりは無いし,世界の宗教自体には強い関心がある。全ての宗教は,他者を害さない限り尊重されるべきだと思っているし,時間が許すかぎり,あらゆる宗教について等しく学ぶことに努めている。よく分からない人間だ。
強いて言えば,私はいつか全ての宗教が宥和し,究極的には円満に合一することを望んでいて,その世界を実現するための「希求」(クエスト)に生きることこそが人生最大の意義なのだと感じている。ただ,そんな世界が必ず実現するのだと絶対的な確信を持っているわけではない。それでも,死力を尽くした冒険そのものが,仮にのたれ死のうと私の人生を肯定してくれるだろうと思っている。すなわち「希求主義」(クエスティシズム)だ。
この希求主義というのも,既存の宗教に直接基づいているわけではない。昔,私はクリント・イーストウッド監督の『パーフェクト・ワールド』とか,ディズニーの『ピノキオ』といった映画が好きだった。これらに共通するのは,主人公たちが様々な苦難を乗り超えて自分の理想郷を目指す物語(希求譚)だ。それは必ずしも成功するとは限らない。途中で息絶えることもある。それでもそういう人生は何か良いものに思えた。
私から信仰と言えそうなものを絞り出そうとして,もう一つ思いあたるのが「時間」だ。幼い頃から,時間は私にとって一神教でいうところの神そのものだった。時間,より正確に言えば「未来」は限りない可能性を秘めているという意味で全知全能にも等しいからだ。時間には嘘をつけないという感覚があった。これも,着想は宗教よりも SF 等から得ている。要するに,『ドラえもん』のタイムマシンだ。大人になってから,これに「時神論」(chronotheism)と名付けて,世界の宗教・神話などとの比較研究をするようになった。
……簡単にまとめようと思ったが,やはりキリがないので今回はこの辺でやめておく。