「造語」(ぞうご)とは,新しく言葉を造る事である。
概念に相応しい語がない時に必要となる。
GAFAM の停滞,Twitter の混迷,中間選挙にも表れた米国政治・世界情勢の膠着。世界の行き詰まりは誰の目にも明らかとなり,その突破口である希哲館事業とデライトにとってはこれ以上ない舞台が整いつつある。
デライトの現状からすると,完全な成功はデライト3周年の来年2月13日までに果せるかどうかだろう,と考えてみて,まだ正式離立から3年も経っていないことに愕然とした。6,7年は経っているような気分だった。意識が先走り過ぎていたのかもしれない。
大輪郭整備では初期ツイストの見直しも始めたが,ちょうどデライト構想が出来たばかりの頃のツイスト群で,何かと感慨深かった。当時はデライトの離立が全てだった。当然,それでは何も終わらなかった。結局,「完全な成功」も通過点の一つに過ぎず,また新しい課題が立ちはだかるのだろう。これからもずっと,それが私の日常なのだと思うとかえって気が楽になった。
最近,輪郭整備を意識しなくても自然と丁寧な描出が出来るようになり,良い傾向だと感じている。
輪郭整備は無計画にやっているとキリがなく,迷子になりやすいので副日記に専用記録を加えることにした。「輪郭整備記録」というのも煩わしいので,「整輪」を造語し「整輪記録」とした。傾向や進捗の把握,中断・再開も容易になり,開発との釣り合いも取りやすくなるだろう。
最近,輪郭整備を強く意識するようになった現実的な理由の一つに,SEE による検索流入の伸び悩みがある。検索流入は極めて緩やかに増え続けているが,デライト市場戦略を補完する役割を十分に果せていない。
デルン/デライト自体が前例のない司組である上に変化が激しかったため,SEO 効果の測定も難しかったが,9月までの開発で司組上の課題がほぼ全て解消したことで,献典不足という問題に向き合わざるをえなくなった。特に,9月の輪郭情報取得改良による高速化,サイトマップ改良後は検索流入にも顕著な好影響が見られたものの,10月中旬頃からまた停滞してしまっている。こうなると,ページ数に対する献典不足以外に問題が考えられない。
乾燥が気になってきたため,梅雨頃から手を抜いていたスキンケアをまた意識することにし,品物を揃えた。
日曜日なので半休にして,のんびり15日分のまとめでも片付けようと思ったが,想像以上に時間がかかった(最後の24歩)。
よくあることだが,描き出してみて初めて膨大な思考量だったことが分かる。
デラング的転回の後,デライト市場戦略におけるデラングの重要性が一気に高まったことで,「デラング」の検索語としての利点に気付いた。
いま Google 検索してみると,外国の地図と「もしかして」が表示されてしまっているが,一応最上位になっている("デラング" の Google 検索結果)。この調子なら間もなく独占出来そうだ。さほど期待していなかったので棚から牡丹餅みたいなものだが,第四次デライト市場戦略への期待がさらに高まった。
他方,もっと長く多用してきた「デライト」や「デルン」の方は完全に埋もれてしまっている。
「デライト」に関しては,「デライト メモ」のように検索すれば最上位に出てくる。そもそも普通のカタカナ英語なので,埋もれやすいことを想定して「なんでもメモ、デライト」という獲句を考えたのだが,それにしても「デライト」単独での上昇が思ったより遅い。認知度の高い固有名詞が無いからそこまで上位表示は難しくないだろうと思ったが,中小規模の用例が意外に多い。将来的にはともかく,立ち上がりには厳しい検索語だった。
「デルン」の方は,あえて耳慣れないように造語したのだからすぐ独占出来るだろうと思っていたが,10年以上使っていて全く上位表示されなかった。よくよく検索結果を観察してみると,どうも語に部分一致するページが多い。耳慣れな過ぎて,そもそも単独の語として認識されていないようにすら見える。短さも裏目に出たか。
サイト全体への検索流入は良好に推移してきただけに,逆効果になる可能性を考えると下手に作為的な SEO も出来なかった。単純に Google 検索してみると,「デライト」で136万件,「デルン」で20万件弱,「デラング」で2,400件と,見事に桁が違う。結局,競合が想定より多かった上に,雑多なページが膨大にあるせいで評価が分散したのが原因だったのだろう。
デラングが図らずも三度目の正直になったが,ここまで検索に強い商標を作るのが難しいことだとは思わなかった。市場戦略的なことを考えて作り込んだ「デルン」や「デライト」よりも,語感が良く使いやすいというだけで使い始めた「デラング」の方が強いのも皮肉だ。
私には,いわゆる「共感力」というものが無い。時々思うことだ。
普段書いていることを見ていれば何となく分かると思うが,私は,あまり多くの人と同じような生活をしていない。これは昨日今日始まったことではない。10代の初め頃からずっと,私はこんな調子で生きて来てしまった。
思えば,私が KNS なんてものを発明したのも,この共感力の無さによるところが大きい。
私には,主にマイクロブログ系の SNS を消極的に使っていた時期がいくつかあり,そういう時期に私を見かけた人なら分かるかもしれない。私の SNS の使い方は,基本的に独り言を延々と垂れ流す,というものだ。しかも,自分で考えた造語や翻訳語をちりばめて,だ。
最初からこうだったわけではない。最初に SNS に接したのは20歳そこそこで,その頃は周囲に合わせようとしていた。ところが,使っているうちにある問題に気付いた。同じような年頃の人達が,自分とは全く違う生き方をしているということだ。
例えば当時,よく若者の間で盛り上がっていた話題といえば,就職氷河期下での就活だとか,日本社会への悲観論だったりした。
それが私には全く分からなかった。当時の私は,希哲館事業を始めばかりだった。ろくに学校にも行かず17歳で輪郭法を閃いた私は,定職につく気も無く,どうすれば世界史上最大の企業を創り,日本を世界史上最大の極大国に出来るかということで頭が一杯だった。
「もう日本は駄目だ」「英語を勉強して日本を出よう」などという悲観論が渦巻いていた SNS で,ただ一人,「これから自分が日本を世界の中心にする」と希望に満ち溢れていたのが当時の私で,要するにずっと変わっていないのだ。最初はそれがズレていることにも気付いていなかったと思うが,流石にだんだん周囲との空気の違いが分かってくる。
SNS というのは,多くの人にとっては仲間を見つけたり,共感しあったりする場なのだろうと思う。私にとっては,使えば使うほど,自分がいかに世界の中で孤立した精神の持ち主か,ということを思い知らされる場だった。単純に,あまり面白いものではなかった。
共感力の無さというのが現実的な問題になるのは,やはり「商売」を考えた時だ。デライトも,多くの人に気に入ってもらい,そこから利益を生み出そうとしている,という意味では立派な商売だ。
ところが私には,人の欲望というのもあまりよく分かっていない。男性で言えば,金が欲しいとか,女性にモテたいとか,そういうのが欲望の典型なのだろう。しかし,私はその手の感情を抱いたことがほぼ無い。
厳密に言えば,金が欲しいとは思う。ただそれは事業のためだ。希哲館事業の理想を実現するためには,「兆円」の単位では足りない。最低でも「京円」の金が動かせるようにしたい。そういうことはよく考える。
その一方で,私的な金銭欲には乏しい。希哲館事業を始めた当初から,私は自身も含めて全執務員の給与・報酬を「世の中の平均的な水準」にすることを決めている。つまり,どれだけ希哲社が利益を上げようが,私は月に数十万円程度の金しか受け取らない。
別に我慢をしてそうするわけではない。それが清貧思想とか社会奉仕のパフォーマンスなら,アメリカ企業がよくやるように1円の報酬でいい。私は別にそういう“思想”で金が要らないわけではない。本当に,人並程度の収入で十分満足に暮らしていけると思っているのだ。
しかし,商売をする上で,人の欲望の流れを感じることが出来ない,というのは致命的かもしれない,と思うこともある。金が欲しいという人の気持ちも,女性に囲まれて嬉しい人の気持ちも分からないのだから,少なくともそれで釣るような商売には全く向いていない。
ではどうすればいいのか。これまでの生き方はいまさら変えられない。
でも,私にも共感出来ることはある。それは,枝葉ではなくて,人間として誰もが持つ普遍的な部分への共感だ。例えば,人が転んでいるのを見れば痛そうだと思うし,泣いているのを見れば可哀そうだと思う。幸せそうにしていれば何となく嬉しい気持ちにもなる。
人間のどこかではなく,人間そのものへの共感を深めていく,そんなことに希望を見出したい。
折角なので,昨日の一日一文で書いた「希哲館」命名の思い出話を続けてみよう。
14年ほど前,当時の私が持てる知識と理想の全てを注ぎ込み,名付けたのが「希哲館」だった。その後,私は膨大な造語や翻訳語を考案し,様々な物事の名前を考える営みを「最小文学」とすら呼ぶようになった。しかし,「希哲館」を越える名前が出来たと思えたことはない。そういう意味では私の最高傑作だ。
名を体を表すとも言うが,ある名前が良いかどうかは,それが指し示す物によって変わるものだ。醜いものにどれだけ表面的に美しい名前を付けても,それは良い名前とは言えない。
後に「希哲館」と呼ばれることになる“それ”は,デライトの基礎にもなっている輪郭法を武器に,知による産業革命と知を共有する民主主義の確立を目指す機関として構想されたものだ。それは在野の自由と力強さを持ちながら,未来の公共を担う大きさをも兼ね備えていなければならない。これに対する「希哲館」以上の名前はいまだに見つかっていない。
さて,「希哲」の部分に関しては昨日の一日一文で書いた通りだが,この「〜館」の部分にもそれなりのこだわりがあった。
「希哲院」では気取り過ぎ,「希哲屋」「希哲軒」「希哲亭」では気軽過ぎ,「希哲楼」では派手過ぎ,「希哲庵」では地味過ぎ……最終的に,「希哲館」以外では「希哲堂」や「希哲荘」などが有力候補だった記憶がある。
「〜館」は,近世までは藩校(明倫館・造士館……)などによく見られ,近代以後は大使館・公民館・図書館・博物館・美術館など,交流や文化に関わる施設に広く使われるようになった。明治時代の「鹿鳴館」,バグダードの「知恵の館」(バイト・アル=ヒクマ)のように歴史的な事業を連想させるものでもあった(後に薩摩藩の「集成館」にも似ていることに気付き,集成館事業になぞらえ「希哲館事業」という表現を使うようになった)。「館」が持つ歴史的な用法や現代におけるイメージを総合して,これが最も思い描いているものに近いと考えたわけだ。
……「希哲館」に関する話は,まだまだ書き尽くせそうにない。また気が向いたら続きを書こう。
デライトでは,「フリーソフィー」(freesophy)を提唱している。無料(フリー)哲学(フィロソフィー)の意だ。
いわゆるフリーミアムよりも無料であることに重きを置く考え方だが,「哲学」と言うだけあって,ビジネス模体に留まらず,経営思想でもあり設計思想でもある。
フリーソフィーの考え方を端的に表すため,「無料は品質」という言葉を私はよく使う。つまり,無料であるかどうかは,単に価格設定の問題ではなく,サービスの品質に直結する問題でもあるということだ。
当然ながら,デライトにもサービスとしてどのように収益を上げていくかという課題があり,フリーミアムも含めて様々な選択肢があった。検討を重ねた結果として,全ての主要機能を無料で提供し続ける道を選ぶことにした。
大体無料にした方が,サービスの設計は単純化出来,可接性・可使性も向上するからだ。
まず,フリーミアムを採用している多くのサービスにあるような「料金表」をデライトには掲げたくなかった。これは美的でもないし,こんなものと用者を睨めっこさせたくない。支払い手続きで煩わせるのも嫌だ……等々と,サービスをいかに握接しやすく,使いやすいものにするかということを追求していくと,結局無料にせざるを得ない。
無料が理想なら,課金は必要悪だ。用者から直接金を取らずに問題なく経営していけるなら,課金サービスに意味は無い。
課金しないとなると頼りは広告くらいだが,デライトでは広告もかなり抑制している。少なくとも,用者体験を損うような広告は付けないようにしている。
もちろん,大抵の企業にそんなことは出来ない。しかし,超高効率経営を実現している希哲社には出来る。先日書いた文章(ネットサービスにおける「成功」とは何か)でも少し触れているように,デライト開発・運営には驚異的に金がかかっていない。
もっとも,あまりに開発体制を梱薄にまとめてしまうと,課金に関する事務負担が馬鹿にならず,あまり旨みが残らないという問題もある。そういう意味では,超高効率経営とフリーソフィーは切り離せないのかもしれない。
困ったのは,無料であることを経営思想・設計思想にまで深めた考え方を表現する言葉が無い,ということだった。
フリーミアムでいう「基本的な機能」と「高度な機能」に明確な定義は無く,提供者側の都合で割とどうとでもなる。顰蹙を買っている Evernote は分かりやすい例だが,個人知識管理サービスは長期的に用者の知識情報を預かるものだ。金次第で将来的に利用が制限されるかもしれない,という不安はサービスの根幹に関わる。
しばらく悩み,ある時ふと閃いたのが「フリーソフィー」だった。
単純に音の響きもフリーミアムに負けず劣らず良いが,ことフィロソフィーを看板にしている希哲社にとってこの上無い語感の良さ,意義も的確,新規性も十分,「無料哲学」と和訳しても分かりやすい,と満点だった。
こんな文章を書いているのも,正直,あまりにも出来過ぎた造語なので自慢したかっただけかもしれない。フリーソフィー……とにかくやたら言ってみたくなる魔法の言葉だ。
「開発者さんの説明があんまり上手ではない」というのは,まず言われないことなので良い意味で色々考えさせられました。なぜ言われないのかというと,私以外の誰も何を説明しようとしているのか知らないからです。ただ,それを否定しきれないのは,この頃,自分の伝える能力に少し限界を感じていたからです。そういう意味では図星でした。
最近,ツイストでもちょくちょくそんな風なことを書いていますが,「一流のマーケターだったらデライトをどう売り込むんだろう」とか「一流のコピーライターならどうデライトを表現するんだろう」と考えてしまうことがあります。その前にデライトについて理解してもらわなければいけないわけで,現実には人に任せられることではないのですが,自分の絶対的な能力不足は薄々感じていたことです。
ちなみに,ツイストについてはあえて気ままにだらだら書いているので,そのつもりで読んで頂いた方が良いかもしれません。最初はある程度綺麗に書こうとしていたのですが,途中で,そもそも Twitter ってそういうもんでもないよな,と気付いて止めました。推敲に時間をかけているうちに失われてしまうものもありますし,雑になってしまうことより,綺麗に書くことにこだわって結局書けなくなることの方が損失だからです。
さて,本題の造語についてですが,これは端的に言って「必要悪」かなと思っています。
例えば,医学でも法学でもなんでも,ある程度高度な知識体系を持つ専門分野には,必ず日常的ではない専門用語があります。それこそ,哲学なんかでは哲学者個人が勝手に使う暗号めいた用語が頻出します。そもそも我々が当たり前に使っている言葉も,江戸時代の人々から見たら奇異な造語と翻訳語にまみれているわけです。
では,そうした専門用語を平たく噛み砕いて書けば分かりやすいのかというと,それはそれで冗長で訳の分からない文章になるでしょう。用語というのは,複雑化した情報を整理・共有しやすくするために用いるものです。ある分野について正しく理解してもらうには,難しい言葉を使わないことではなく,難しい言葉を使えるようになる教育の道筋を整えることが必要です。
これは概ねデライトでも同じだと思っています。デライトは実際に数多くの新しい概念を抱えたサービスで,これを正しく表現するためには多くの造語が必要でした。逆に,見慣れた易しい言葉だけで簡単に説明出来る範囲でデライトを開発していたら,それは何の変哲もないありふれたサービスになっていたと思います。それは私の目的ではありません。
ただ,専門分野でいう「教育」にあたる部分がデライトでは十分に出来ていない,というのはおっしゃる通りです。具体的には,文書の未整備,特に用語の定義を追いにくいというのは実は結構前に他のユーザーから指摘されていたことでもあり,問題として認識しています。これは単純に,時間が足りなかったことが原因です。
ついでに言うと,造語・翻訳語は「膾炙」を待っていると誰も使いません。言葉というのは使ってみなければ良いも悪いも分からないものなのですが,日本人の場合,性格なのか周囲が使わなければ使わないという人が多く,結局誰も使わないということになりがちです。カタカナ外来語がこれだけ問題視されながら放置され続けてきた理由でもあると思います。それが思考の範囲も規定してしまっています。
なので私は,むしろ意識して,自分で考えた言葉は一人でも自分で使うようにしています。その価値があると思える言葉で,新しい物の見方・考え方を開拓したいのです。
つづきます。
最後に,ご指摘の「思想臭さ」や「難解さ」についてですが,これも造語と同じで,今となっては必要悪に近いなという感覚です。
昨年半ばに知って頂いたということでお気付きか分かりませんが,デライトは当初,出来るだけ無難な宣伝を心がけていました。ちょっと風変りな気軽に使えるメモサービスに必死に見せかけようとしていたのです。結果として表面的な反応は悪くなかったのですが,ユーザーの定着には全くつながりませんでした。
こういう経験から,少しずつデライトは難解さも含めてありのままを重視する戦略にシフトしていきます。見せかけの分かりやすさで気を引くより,時間がかかっても理解あるユーザーを増やしていくことの方が長い目でみれば得策だろうという考えです。
そもそも,思想臭や政治臭を感じさせないサービスって,波風を立てていないから気付かないだけで,よ〜く考えると気持ち悪いものだなと思います。世界や社会について何も考えていないか,都合が悪くて隠しているということですから,突き詰めれば信頼性・透明性に関わる問題に他なりません。
GAFA 等が社会的責任を厳しく問われる立場になってはじめてそれが露呈したと思います。便利な技術を作ったらそれがどんどん社会的影響力を持ってしまったけど,その後は知らん,で済まされる時代はもうすぐ終わるでしょう。思想や政治観の無いサービスはもう古い,という時代はすぐそこだと思っています。
デライトは,この技術でどのように世界を変えるのか,政治はどう変わらなければならないのか,考え抜いたことを全て開けっ広げにします。それこそ透明性であり,それで離れていく人がいるとすれば,その人に対する誠実さでもあると思います。あとはその思想がどこまで普遍性を持てるかの勝負になるでしょう。
何より,思想臭さは人間らしさです。もし私が目先の利益を貪るだけの動物なら,万に一つも成功の可能性はないと思っていたデライト開発に18年もかけなかったでしょうし,何があろうとこれからの人生の全てを捧げようとも思わないでしょう。これは思想を持てる人間だけが出来ることです。
そう考えると,デライト最大の強みは,どこよりも強い思想に支えられていることかもしれません。
デライトを触っていると、造語がしたくなる
考えをより正しく表す語が欲しくなる
デライトは考えるための道具
→新しい考え・概念が生まれる
→新しい考え・概念を正確に表した語が欲しくなる
→造語したくなる
説明する輪郭へ輪結で結べば説明が不要