想品開発の分野では,「リグレッション テスト」〈regression testing〉というものがある。想品に手を加えたことによって,意図しない部分に何らかの悪影響が及んでいないかを確かめる手定めのことだ。
日本語では,これに対する「回帰テスト」という訳語が普及しているのだが,あまりに不思議な訳語なのでちょっと考え込んでしまった。翻訳は試行錯誤を重ねていくことが重要なので,訳者の姿勢は高く評価するが,質としては誤訳ないし迷訳の部類だろう。
「回帰」は,回の字が示すように「紆余曲折を経て」という含みを持つこともあるが,簡単に言えば「元に帰る」という意味の言葉だ。原点回帰,都心回帰,永劫回帰……などと,一般にも専門的にも広く使われているが,「回帰」それ自体の意味はごく平易なものだ。一方,「リグレッション」の主な意味は「退行」だ。何らかの進行に反して進むようなことをリグレッションと表現することが多い。想品開発においては,改良のための作業によって新たに生まれる不測の不具合と解釈しておけば間違いない。
統計学ではリグレッションを回帰と訳しているが,これは試行回数を重ねるごとに平均値に近づいていくという統計現象(平均回帰)に由来している。これを退行に近い意味でリグレッションと表現したのはフランシス・ゴルトンで,生物の世代間の平均回帰的な特徴が,当時でいう「進化」に逆行するように見えたことによる。現代的には,価値判断を含みやすい「退行」等よりも「回帰」の方が無難な表現といえるので,結果的に悪い訳語にはなっていない。
おそらく,はじめに「回帰テスト」と訳した人は統計学の訳語を流用したのだろうが,歴史的背景が異なることもあり,まったく意味が分からないものになっている。こちらでいうリグレッションは「悪化すること」であって「元に帰ること」ではない。この「回帰テスト」を日本語として「以前に立ち返って再度行うテスト」と解釈することも出来なくはないが,実態に即しているとも言えず,そもそも回帰と訳されているリグレッションというのが独立した用語なので,この説明も苦しい。幸い,この点に疑問を抱く人は少なからずいるようで,「退行テスト」という訳語もそれなりに使われている。
とはいえ,「退行テスト」(退行手定め)にも少し違和感を覚える。私も新しい訳語を考えてみたが,まだこれという案は出ていない。直感性なら「劣化テスト」(劣化手定め)あたりが分かりやすいが,「劣化」の意味が広すぎて厳密性に欠ける。デグレードなども含めて用語・訳語の体系的整理が必要になりそうだ。