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{『WELQ』問題の本質は「志の低さ」にある K#F85E/2374-308B}

『WELQ』問題を発端とした,インターネット上の悪質な献典コンテンツ〉についての議論が絶えない。テレビなどの古い鳴体メディア〉にとってはネットに対する恰好の批判材料にもなっている。これも本件の余波が大きい一因だろう。

先日の「『WELQ』で考える著作権問題」という文章でも書いたように,この問題を著作権問題として捉えることには一定の留意が必要だ。本来,際限の無い問題に一線を引くのが著作権法なので,それをモラルの問題にするとキリが無くなる。

では問題の本質はどこにあるのだろうか。私が思うに,『WELQ』問題とは突き詰めれば日本の IT 企業全般の「志の低さ」問題だ。

「必要悪」の神話

日本の IT 企業,特にインターネット企業が権利侵害に無頓着であることの根底には,「そもそも IT 企業とはそんなものだ」という意識がある。実際,Google にせよ Facebook にせよ,世界的成功例とされる企業も創業当初から権利侵害とは隣り合わせだったという事実がある。彼らは,新しい仕組みを生み出すためにしばしば他者の権利を侵害してきた。それもイノベーションのための必要悪だという「物語」を,日本の IT 起業家の多くが信奉しているのだ。

今月7日『WELQ』を運営している DeNA会見の中で,経営者側が繰り返す「(スピード感やチャレンジ精神といった)スタートアップの良さを失わないように」という言葉を受けて,記者が「コンプライアンスやモラルは守っていて当然なのではないか」という疑問を呈する一幕があった。これに対し経営者は無難な返答をしていたのだが,私はそこに,建前と現実の差とでもいうべき認識の根深い隔りを感じた。一緒にされたくはないが,大きく括れば同業の者として,彼らが腹の内ではそう簡単に割り切れない感情を抱いていることはよく分かる。

「そうお行儀よくイノベーションが出来るかよ……」と彼らの目が語っているようだった。

世界のための金か,金のための世界か

なぜアメリカの IT 企業は許されて日本の IT 企業は許されないのか。それがつまり「志の違い」なのだ。少なくとも成功したアメリカの IT 企業は,IT で実現したい世界のために金を稼いでいるが,日本の多くの IT 企業は,金を稼ぐために IT を利用しているに過ぎない。例えば権利侵害を「必要悪」とするためには,結果としてそれを大きく上回る公益を生み出さなければならないが,日本の IT 企業にはそれが出来ていない。実質的に「金を稼ぐための権利侵害」,つまり泥棒同然のことしかしていないのだから,社会的に認められるわけがない。

DeNA に限ったことではないのだが,日本の IT 企業は手っ取り早く金になることを求め過ぎる。DeNA の場合も,利益になりそうな流行り物に飛びついてるだけで事業に信念がまったく感じられない。創りたいもののために困難な収益化を図るという考え方ではなく,簡単に収益化出来そうなものを造るという考え方に陥いっている。自然,金さえ稼げれば成果物の質などどうでもいい,ということになる。

度を越した SEO検索エンジン最適化)についても,本来は「良い献典のための SEO」が,この手の企業の中で「良い SEO のための(低コストな)献典」に逆転していても不思議なことはない。むしろ,それ以外のどこに拠り所があるのかという感じだ。

こういう状況を投資環境の悪さのせいにする言説がよくあるが,それは恐らく原因と結果の取り違えだ。起業家とはいわば「冒険者」だ。困難や逆境に立ち向かう力が無く,「金をくれれば出来るのに」と言って何もしない者に誰が夢を託せるだろうか。壮大な夢をしっかり描いて,それに向けた徹底的な現実主義者になること。それだけのことが日本人には全く出来ていない。それが国内では大手とされるインターネット企業で示されてしまったことこそ『WELQ』問題の哀しさなのだと思う。