「描書」(びょうしょ)とは,描における書籍相当のまとまった著作を指す。希哲館・宇田川による造語である。
『希希遊記』(ききゆうき,ききゅうき,Kiki Yu Ki)は,宇田川による旅行記構想である。
日本からギリシャ・アテネを目指して西進する旅を記録する。ただし,その間にある国々や都市,文化や自然を網羅的に観察する点が一般的な旅行とは異なる。
二つの希の字は「希求」(ききゅう)と「希臘」(ギリシャ)を意味しており,「希希遊」は「希求」にかけた洒落である。
当初,『西遊記』にちなんで『希遊記』としたが,語呂が良くないため「遊」同様に「旅行」の意味がある「行」を使い「希行記」(きこうき)としていた。「希求主義的な旅行」を意味する「希行」はこの逆成語である。
2013年1月29日,「希希遊記」に改めた。
希哲12年8月3日頃から,希求旅行開始に伴い,全体構想を再考し始める。希哲12年8月7日,『希々遊記』と簡潔な表記にすることも考えたが,二つの「希」の意味が違うことを強調するため,あくまでも『希希遊記』を正式表記とすることを決めた。原則として,読みの表記は「ききゆうき」,発音は「ききゅうき」とすることを決めた。一部の企業名などに残っているように,戦前の日本語では小書きせずに拗音等を表記していたことを利用。
『吾希娃記』(あきあき,Aki Aki)は,宇田川の執筆構想の一つである。希希遊記外伝。
「世界最高の美女を希求すること」を主題とし,世界の美女についてもれなく記述する書であり,美人画集を兼ねる。
当初,『美女大全』(びじょたいぜん)という仮称であったが,芸がないため工夫してみた。
「吾」(あ)は「私」,「希」は「希求」,「娃」(あ)は「美女」の意である。「飽き飽き」にかけた洒落。
『希求主義宣言』(価値観の奪還に向けて)
『復生*機算大全』
『復生*機算辞典』
『プログラミング言語 Cμ』
『プログラミング言語 Cν』
『プログラミング言語 Dν』
『復生機算大全』(ふくせいきさんたいぜん,Corpus of Computing Renaissance,CCR)は,「機算」(コンピューティング)における基礎知識の体系化を計る描書である。『復生機算辞典』とともに「復生機算編」を構成する。主に宇田川浩行が編集を進めている。
基本方針は,枯れた FLOSS を利用して,系統立てて実践的な技術を学べるようにすることである。OS には Linux ディストリビューションの Slackware を教材向けに独自編集した Synicware を用いる。プログラミングでは,C/C++ を中心に実践的なアプリケーション開発を行えるように情報整備を進める。実践に軸を置きながら,幅広く技術と理論の紹介を行う。
「復生」と「機算」はともに宇田川独自の訳語である。
「ルネサンス」(renaissance)や「コンピューティング」(computing)の和訳実験でもある題は,『継生電算術大全』『復生電算術大全』『復生機算術大全』と順に変更を経て現在のものになっている。
出版業界はなぜこうも「書籍」という形式に拘るのか,なぜ電子書籍の時代に入りつつあるいまもなお,発想が「紙の書籍の電子版」を超えないのか,ずっと不思議だった。考えてみると,これは書き手の問題も大きいのかもしれない。「書籍」という形を求めているのは出版社でもなく読者でもなく,実は書き手なのではないだろうか。とどのつまり,「本を出す」という形式が持つ権威性に,書き手の多くが囚われすぎているのかもしれない。
私は,そう遠くない将来,書籍はウェブに近い(つまりウェブではない)電子媒体で代替されるようになると思っている。それは単に,書籍の内容をウェブのように見ることが出来るなどということではない。これまで書籍に収納されていた個々の情報が,もっと参照・検索しやすい「ページ」に抽出され,動的に再構成・集約され,流通するようになるだろう。新しい書き手達が,その新しい基盤で従来の書籍以上に価値あるものを書くようになれば,やがて現存する書籍の大部分は顧みられることもなくなるだろう。
これは,例えば Wikipedia を思い浮かべてみればそう非現実的な話でもないのが分かるはずだ。Wikipedia は,書籍を含む様々な情報源から,重要な情報を抜き出して作られている。もちろん,これが理想形でもなければ問題も多く抱えているが,決して小さくない範囲で「とりあえず十分な情報源」として使われているのは事実だ。
ボランティアでは書き手の意欲に限界があるので,問題は,著作者が利益を確保する手段であり,その基盤としての著作権管理機構だ。これに関しては,マイクロペイメント等で読者がわざわざ個別のコンテンツを購入するのではなくて,プラットフォームが広告や会費によって収益を確保し,それを著作者に分配するモデルが基礎になるだろうと思う。もちろん,補完的な意味ではコンテンツ課金機構も必要になるだろう。
このような分配モデルは,動画系サービスやまとめ系サービス,ニュースサイト等ではよく試みられているし,古くは雑誌のような媒体にも見られる。利用者がストレスを感じない簡便な決済システムを作るよりずっと容易に実現できる古典的な手法でもある。ところが,書籍に匹敵する本格的な情報コンテンツの流通にはまだ目立った応用例がない。これに関しては大きな課題がいくつかあるが,例えば,十分な表現力を持ち,統一的に管理できるほど洗練された文書単位をどう作るか,ということもその一つだ。
私は『希哲館*月庭』で,まさにその課題に取り組んでいる。最近,ようやく諸々の課題に解決の目途が立ち,少しずつ成果を見せられるようになってきた。興味があれば是非,希哲館がどのように新しい情報媒体を実現していくのか,注目して頂きたい。